2022年9月29日

アルバイトをしていて、妙なことに気付いた。僕が働いている店では、レジ袋が有料化したことに伴い、レジ袋の料金を慈善事業として募金する活動を行うようになった。レジ前の張り紙には、「レジ袋を買ったお金が○○万円になり、これらが□□へ寄付されました。」などと良い事のように書かれていた。

だが、ちょっと待ってほしい。

そもそも、レジ袋有料化は何のために行われた政策だっただろうか。当時の環境大臣小泉進次郎氏は環境問題の一環としてレジ袋有料化を推進した。「プラスチックゴミは海洋汚染や大気汚染の原因の一部だ。我々はプラスチックゴミを減らしていかなければならない。そのためにレジ袋を有料化し、マイバッグを普及させていく。」といったような大義名分によりレジ袋を有料化したはずだ。僕はこれを「レジ袋を使う人に罰金を課す形でレジ袋の使用率を下げようとした。」と認識している。僕はレジ袋有料化以降に働き始めたのでそれ以前のことは知らないが、接客をしていて「レジ袋はご利用なさいますか。」と問いかけると大抵の人は「要らない。」と答え、マイバッグを取り出して商品を入れていく。またレジ袋有料化によってレジ袋の使用率が格段に下がったのはデータとして出ている。つまり環境省の政策は、「環境問題にトライ出来たか」の前段階である「プラゴミを減らすことが出来たか」という課題には一定の成果をあげたと言って良いだろう。
話をバイト先の張り紙に戻す。環境省はレジ袋に料金を課すことによりレジ袋の使用率を下げる政策を講じた。しかし張り紙には「レジ袋購入代金でこういった慈善事業が出来た。」と記載されている。これはいかがなものだろうかと僕は感じた。環境省からは「レジ袋を買わないでほしい。」というメッセージを、張り紙からは「レジ袋を買ってくれてありがとう。」というメッセージを読み取れる。極端な話をしてしまえば、無料だった時代と同じほどのレジ袋を有料で消費すればとても世間のために役立つということを意味しかねない。「環境省に協力する代わりに慈善事業には参加しない」のと「環境省には協力しない代わりに慈善事業に参加する」のとでは一体どちらが正しいのだろうか。環境改善、慈善事業のどちらもが善い行いだとすると、どちらかしか選べないというのは残酷な話だ。もし張り紙を見て「レジ袋代が役に立つのなら。」とレジ袋を購入し、帰宅してテレビで「プラゴミが詰まりクジラが窒息死した。」というニュースを観た人がいた場合、この人は悪いことをしたのだろうか。良いことをしたのだろうか。「環境省のやってることなんて何の意味も無い。」と切り捨ててしまえば「どちらも善」という状況にはならず問題にはならないのだろうが、反対の声はありながらも民主主義社会で通ってきた政策と背反する慈善事業というものが本当に慈善なのかというと疑問を抱かざるを得ない。かなり不思議な「慈善」の形があるのだなぁと思った。


僕のアルバイト先は規模の小さい店だ。ほとんどがアルバイトやパートで回しており、そのせいか手続きや処理の一部が雑なままそれが脈々と受け継がれていることがある。
派遣の店長が今の店に来てしばらく経つが、未だに「これ、この店舗ではどうなってるの?」と聞かれることがある。「他所の店舗でこんなことをしている所は無い。」「他所の店舗ではどこでもやっているのに。」などと他店舗と比較され色々と言われながら、「うちではこうなんですよ。」と返している。どうやら僕が働いている店舗は色々な面でオリジナリティがあるようだ。そうは言っても、僕は先輩から教えられたことしか知らないので他所がどうと言われようがそんなことは知ったことではないし、今更全ての処理、手続きを見直して一からマニュアルを作り直そうという訳にもいかない。結局店長には「うちのルール」を覚え、うちでの働き方に馴染んでもらうしかないのである。
「この店舗は変わっている。」と言われる度に、「あぁ、文化だなぁ。」などとスケールの大きなことを漠然と思う。書面でのマニュアルは一応あることにはあるがもう古くなっており、僕は仕事のほとんどを先輩の口から学んだ。それも1人2人からではなく、職場のほとんど全員から少しずつ教わっていった。いつか僕が先輩になった時には、同様に僕や僕以外の人からその後輩へ仕事を口で説明することになるのだろう。そう考えた時、これは文化も同じだと思ったのだ。人から人へと垂直方向に伝承されていく。その過程で知らぬ間に変更点が加えられる。そしてそれが水平方向へ広がり、そしてまた垂直方向へ落ちていく。これの繰り返しで技術やノウハウは受け継がれていく。ある時かなり歴の長い先輩に「昔はこうしていたんだけどね。今はもう何でだかやらなくなっちゃった。本当はやった方が良いんだろうけどね。」と言われた。誰かが何故だかやらなくなったのである。そしてそれが水平に、垂直に広がり、いつの間にかスタンダードになったのである。アルバイト先ですらそうなのだから、広い日本社会、地球社会で見てみれば独自の文化が各地で湧き起こるのは至極当然の話である。地理的に、あるいは時間的に離れれば離れるほど、文化の乖離は著しくなり元々同じであったことを思い出せなくなる。歴史と多様性の発生である。
僕のアルバイト先はガラパゴス化していたと言える。だからこのバイト経験がどこまで社会一般に通用するかは分からない。だが、ガラパゴス島での生活は存外悪くないものだ。時に堅く、時に緩く僕はここで働いている。

要するに何が言いたいのかというと、夜のワンオペはどうしようもなく暇なのだ。

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