【随筆日記】 「思い出のラーメン」
時々「一番美味しいと思うラーメンは何」と訊かれる事があるが、この質問に答えるのは容易な事ではない。ただ訊いてくる人は少なからず答えに期待しているもので、単なる話題のネタとしての質問とは言い切れない。
僕にもそんなラーメンはあるのだか、写真は残っていない。そしておそらくこの先もどんなラーメンを食べてもこれこそが一番というものにはもう出会わないんじゃないかなと思っている。
その店は「蘭龍」。北海道蘭越町にあった小さなラーメン屋だ。
今からかれこれ30年近くも前。かつての同僚がこの蘭越町に赴任した。それで僕も夏休みには長期で滞在していた。その頃蘭越町には2つラーメン屋があり、一つは現在でも残っていてそちらもけっこう美味しい店、もう一つがその「蘭龍」だった。
町の人たちの意見も二分していたと思う。言ってみればそれ程目立つ存在でもなかった。たしかに国道沿いのちっぽけな町中華といった感じ。店の中もあまり明るいでもなく、テーブルが2つ3つあるかというくらいの狭さ。老夫婦が細々と営んでいるような感じだったのが最初に入った時の印象だ。
その時頼んだのが「味噌ラーメン」だった。白味噌ベースで適当に野菜炒めと叉焼もあったと思うが、これまで食べた味噌ラーメンとは違った味がした。初めての味だった。どことなく胡麻の香りのような風味だった。間違いなく美味しかった。
以後蘭越町滞在中は毎日のようにこの蘭龍で昼食を食べていた。味噌ラーメンの次に食べたのが「田舎ラーメン」だった。こちらはそれこそラーメンの常識を覆すような緻密な味の重なり合いでできているようなラーメンだった。以後味噌ラーメンと田舎ラーメンを代わる代わる食べるようになる。
一回の蘭越町滞在で最低でも5,6回は店を訪ねるようになった。お店の小父さんが言うには店は夫婦経営でそれほどの量は提供できない。町内にいる友人知人が食べに来て満足して帰って行くのが楽しいのだと言うことだった。
「それじゃあ、僕みたいなよそ者が毎日のように来て食べちゃったら」というと小父さんは笑っていた。そのくらいは大丈夫だよと言っていた。薄暗い店内、静かに時間が流れ、時折トラックが通過するとガタガタ揺れる。そんな時間と空間も含めてこの店の虜になっていた。
北海道滞在中は蘭越町だけにいるわけでもなく、そのあたりはごく在り来たりなライダーだった自分は移動先のキャンプ場や温泉施設などで情報交換をするときによくこの蘭龍という店を紹介していた。
「あ、その店知ってるよ。結構有名だよね。」と意外な答えが返ってきたのが確か網走湖の湖畔でキャンプをしていた時にたまたま隣り合わせたライダーと話し込んでいた時だった。網走から見れば遠い遠い後志の田舎のラーメン屋がなんで有名なのだろうと思ったが、その後もユースホステルなどで話題に上っていた。
何でも蘭龍はDoバイクという北海道のバイク雑誌が企画した道内で一番美味しいラーメン屋という企画でグランプリを取った店でもあった。そして紹介されていたのがあの「田舎ラーメン」だったのだ。蘭龍は北海道のライダーの間ではとても有名なお店だった、
数週間後に再び蘭越に戻るとまずは友人やその周辺の人にその話をしたがにわかには信じてもらえなかった。それこそ「え〜そうなの、もう一つの店の方が好きなんだけどな。」などという返事も帰って来た。確かにもう一つの店のレベルも相当高かったと思う。噂を知ってから蘭龍は特別な店のようにも感じられたが実際のところは相も変わらずほとんど客も来ないし、行けば小父さん小母さんとちょっと話をするようなのんびりした雰囲気が漂っていた。
翌年も蘭越に滞在すると蘭龍には毎日のようにかよっていたが、自分以外の客が来るなんてことはあまりなかった。バイク雑誌でグランプリを取ったと言う話を切り出すと小父さんは笑いながら、
「確かにね、客が急激に増えちゃって地元の仲間が食べられないなんて時あるんだよね。でもこんな田舎まで食べに来る人はやっぱり少ないよね。田舎で良かったよ。」なんてことを言っていたような覚えがある。何かのきっかけで名前が売れても贔屓にしてくれる地元の人達の為にラーメンを作るというスタイルは変わることはなかった。僕もあまり評判にさせてもいけないと思い、蘭龍という店を他の人の紹介するのはやめにしておいた。
その翌年くらいだったか、久しぶりに店に入ると小母さんしかおらず、お父さんはどうしたのかと訊ねると倶知安の病院に入院したという話を聞いた。小母さんひとりでもお店は開けられるので一人で店を続けていて、今日も午前中倶知安まで見舞いに行ってきたという話をしていた。その年も何回かお店には行ったが、小父さんの顔を見ることはなかった。
その年を最後にしばらく蘭越へ行くことはなくなった。そして数年ぶりにバイクではなくてレンタカーで蘭越を訪れたとき、蘭龍はお店ごとなくなっていた。数年前小母さん一人で店を開けていたときに食べた味噌ラーメンが結局は最後だった。あの時あれが最後だなんて夢にも思っていなかったけど、蘭龍はお店ごとなくなっていた。もっと食べておけば良かったという悔いはなかった。蘭越を訪れる度に通っていたので十分にラーメンは食べた。しかしもう二度と食べられないという無念さはやはりついて回ってくるものだった。
これまで食べた中で一番美味しかったお店は北海道蘭越町にある「蘭龍」です。と今でも自信を持って答えられる。きっとあのラーメンを越えられるような味のラーメンには二度とは出会えないだろう。似たようなお店はいくつか出会ったが、決定的に違っている点があった。勿論ラーメンの味でもそうなのだがお店の空気、もてなしてくれる小父さん夫婦、そういった物が圧倒的な差を生み出すのだと思う■
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