【随筆日記】ストリートビューで追う47都道府県思い出の場所《山口県》
山口県仙崎港
山陰本線に枝線がある。長門市駅から仙崎までの短い枝線だが、ここになぜわざわざ枝線があるのか、その理由はわりと奥の深い話かも知れない。
終戦後大陸にいた日本人は何らかの形で本土に戻ってくるわけだが、その大半は日本海を渡って帰って来た。これを「引き上げ」といい、夥しい数の引き上げ船が日本海沿岸の港に到着した。引き揚げ船が到着し引き上げ援護局が開かれた港が18カ所。そのうち日本海沿いの港は舞鶴と仙崎だった。(新潟や敦賀からも援護局はないが上陸できたと思う)。
母も朝鮮半島から仙崎港に引き上げてきた。しかしその話を聞く前に仙崎に一度だけ行っている。駅からすぐのところに港があるが、当時この港に引き揚げ船がやって来たなどと知る由もなかった。後から話を聞いてなんとも運命を感じた物である。と言ってもそれほど大袈裟なものでもない。
10年以上も前に亡くなった叔母が今、叔父の故郷ということでこの仙崎にある寺の墓に眠っているらしいのだが、それは詳しくは知らない。何人もいる叔母の中でも一番好きな叔母だった。僕がうんと小さい頃、まだこの叔母は結婚しておらず祖母の家に遊びに行くと必ずいて、よくからかわれたものだ。その後は結婚して大阪に移り住み、大阪で生涯を終える事となる。その嫁ぎ先の叔父の実家が山口だった。叔父は遊びに行くといつもニコニコしていて感じの良い人ではあったが、叔母が苦労していると言う話は他の叔母達からもよく聞いてはいた。そのため叔母はどんなに大阪での暮らしに慣れていても絶対に大阪弁で話す事はなく、標準語で一生涯を貫いた。大阪に住んでいても大阪が嫌いだったらしい。
後に言語を専攻してわかった事、大阪弁を始めとした関西弁の系列の言葉は身に付くのが早い。それなのにそれを口にしないようにするためには並外れた努力を要する事でもあった。
後にアメリカにいる親戚と繋がるようになってから知った話だが、僕よりも前にアメリカまで会いに来てくれた親戚はこの叔母ただ一人だったとのことだ。その時はまだ小さかった先方のいとこ達もこの叔母によくからかわれたものだと言っていた■