アベンジャーズ鑑賞日記①アイアンマン

エンドゲーム鑑賞までもう1週間くらいしかないのですが、ケツに火が付くと頑張るのが昔からなぜか習慣化していて、今日は家で仕事しながらアイアンマン鑑賞。仕事せいってはなしなんだけど、ちゃんと仕事はした。だから許してほしい、私のアイアンマン鑑賞そしてこの深すぎる考察日記の執筆を。

普通に感想かいてもつまんないから、私はあえて私の得意な「思考する」ということを活かして、普通の人が考えなさそうなことを考察してみる。

アイアンマン鑑賞して真っ先に思ったのは、「テロ組織に自社の武器売られたことに腹が立った割には、自分(=アイアンマン自身)も結局『力』で悪を制圧している」ことへの違和感。武力だろうが核兵器だろうがそうじゃなかろうが、「物理的な力」を使って他者を制圧していることにかわりないんじゃないの?ということですね。

もちろん、ヒーローってそういうものだと思って見ているわけだし、そうじゃなきゃ映画として面白くないし、そんなの百も承知なんだけど、ヒーローって、力で悪をやっつけるだけがヒーローなの?と思ったんですね。

ものすごーーーーーーく希釈化して言えば(もはや偏見でしかないけど)アメリカ人にとってのヒーローはそういう、なんていうか、力で勝つことなんだろうけど、これが日本人や中国人、はたまたほかの国の人にとっても同じような、力で勝つ存在がヒーローなのかって考えると、少なくとも日本人にとって、パワーで勝つ人がヒーローという概念はあまりないんじゃないかと思う。日本人、というか私だけかもしれんけど。

じゃあ、なぜそのヒーロー像の違いが生まれるか。実はこれ、アベンジャーズファンの知人と議論してて出てきたことなんだけど、「アメリカは第二次世界大戦で勝っている一方、日本はそこで負けて、力で勝てないことを思い知らされていること」が両国のヒーロー像の違いを生んでいるのではないかと。

どんな議論してんだってはなしだけど、結局、そういう歴史的背景のちがいが、こういう映画ひとつとっても顕著に表れるよね、ということが言いたかった。

私個人的には、パワーとかなんとかより、根本的解決方法を探りたいというか、それにはもっと人間の深い心理まで入っていかないと無理だと常々思っているから、なんかこう、そういう思考を持ったうえでこの手のヒーローもの見ると、え、力で勝とうったってそれじゃなにも解決しなくね?とふと思ってしまったのですが、それ自体も、日本人としてのわたしの中に、「力では勝てん」という価値観が植え付けられていることに起因していて、力で勝てて来た人たちにとっては、悪を力で懲らしめることってなんも不自然なことじゃないのかもしれませんね。ただまあ、力には力で、的なもはやヒーローものには必須ともいえる思考回路に疑問をもったことだけは記録に残しておきたかった。

special thanks to J.M (仕事中にアベンジャーズ議論に付き合っていただきありがとうございました)

(アベンジャーズ鑑賞日記② アイアンマン2 につづく)




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