コロフル
流行りにのって体調を崩したのは、新年が明けて、直ぐの頃だった。
突然始まる、悪寒と気持ち悪さをどうにかしたくて、葛根湯を飲むものの、本当に真っ直ぐ素直に応答するのは、葛根湯サイドではないあちらサイドだった。
そこから約1週間、地獄の日々。
からの、夫以外の家族が全滅。
さらに、免疫力の低下した体に別の感染症も狙い目みたいな感じで、流行病×2コース…で、やっと今週。
外はもう大分春めいていて、雪が降るのかなんとかなんて考えていたあの頃から、季節は確実に次の方に向かっていた。
気付けぬ程、全力駆け足ダッシュの日々だったんだなと思った。
大雪が降っても、触ることもしなかった。
狭い家の中から結露し切った窓越しに雪の降る街を眺めてもちっとも心がおどらなかったし、私と外の世界は別のものだと思うほど。
家にいるのが好きなのに、病気にかかると、目の前にダークグレーのフィルターがかかってしまう。
心には重くて絡みつくそのフィルターは、確実に正常な判断力を失う力を持っている。
生きている以上は病気も罹るときはあるのだけど、自分が思う以上に、心身にダメージを受けているもの。
少し歩いただけで息切れするし、思考はとっ散らかるし。
気合いが足りない訳じゃないし、何かをしたからこうなった訳じゃない。
心にもダメージを受けていることを忘れると、大事な決断も誤る時がある。
人生の転換期、悩み事がわーっと湧いている今、風邪をひいた話からなんでこんなことに発展してしまうのか…というと。
ある病気で療養中にした決断が、今の自分を苦しめているから。
そして、身内には止めて欲しかったとも思ってしまう。
決めたのは自分、と彼らは言うけど。
確かにそうだけど、看病の対象にあるということの意味…と、私は私で考えてしまう。
小さな頃から、風邪や病気で寝込む時には必ず、赤い鳥居がたくさん並んだ螺旋階段状の道を全力で走り抜ける夢を見る。
追いかけられて泣きそうになりながら、全力で終わりの見えないその道を走り続ける。
自分が走り続ける感覚がある時と、それを上から眺めて不幸を嘲笑う様な風景で見ている時があって、追いかけてきた何かに掴まれたその瞬間に必ず、今生きている自分の体は嘔吐する。
その夢が一体、なんなのか。
それはなんでも良いんじゃないかと思う。
妄想でも、せん妄でも。
ただ、その夢は、いつも変わらない。
解熱後に待っていたのは、味覚と臭覚異常。
何を食べても美味しくないなら、何も食べたくない…。
そう思いながらも、人には記憶があるのだということを体感する時でもあった。
ひとは、記憶で食べることが出来る。
そして、記憶でにおいを想像する。
ひとには感覚がある。
ただ、それが先天的か後天的かで、感じとる世界はいろんな意味で違うだろうと思った。
コロフル(新型コロナ+インフル)は生活を変えると思ったりしたけれど、人生観も変えるものかも知れない。
最後に…
「コロナが終わって…」「コロナが当たり前になって…」みたいなことは、自分の考えなのだ。
終わってもいないし、寧ろ拡大しているし、消えるわけないし、罹るときには罹ることもあるけど、仕方ないでも、いつかは誰もが罹るでも、ないと思う。
罹れば命に関わる人もいることを意識するのは、想像豊かだから出来ることではあっては欲しくない。
世の中にはいろんなひとのいろんな生活があるという想像力だけは、持ち続けたいと思った。