2024年の始まりの日に思うこと
「まるで薄氷の上を歩く様な、そんな感じがして。どうかその下の冷たい水の中に飛び込まないでね。」
そんな言葉をかけられることが多いのだが、そんな時には、
「まだ、見届けなきゃいけないことがあるし。
このどん底のその先の景色を見たいとどこかで願う自分が居るから、もう少し頑張ってみるよ。」
そう答える。
いつだって波瀾万丈な人生なのだなと自分がそう思って良いのだと気付いたのが、2023年だった。
不幸そうだと、何かにつけ込もうとする人もいるのかも知れない。
そう思うと、そんなことを自分の口から吐き出す必要なんて無いのかも…なんて思っていたところ、
そんなストレスの蓄積で、とうとう体が壊れた。
ある日突然と言いながら、必然ではあったと思う。
目眩と吐き気と耳鳴りと難聴が起こり、体が外界を遮断し始めた。
元々、体は強くない。
度々体のあちこちに不調を抱えていて、社会に適応しづらい自分がいる。
そんなところを嫌がらせの対象とされてきて、嫌な言葉をたくさん聞いたし、いろんなことを体験してきた。
だが、私はその度に、恐ろしいほどその出来事を反芻し続ける。
相手は多分、覚えてないだろうことまでも鮮明に覚えては、自分の中で反芻する。
そんなことを「忘れなよ、そんなこと。」という人は多い。
だが、忘れられないくらいのその出来事を無理に忘れようとして忘れられるなら、傷になるはずが無いと思っている。
ひとからしたら大したことじゃないと思えることも、ひとによって違う。
そんなありきたりな言葉を自分の中に落とそうとして、反芻し続けたところ、自分なりの答えに行き着いた。
「ひとが違えば、言葉も違う。自分の正義は自分のもの。」
当たり前のその言葉だけど、心の中に常に置ける様になってから、誰かの意地悪にも一線を引ける様になったと思う。
誰もが自分なりに何かを思って、言葉も行動もするものだろう。
だけど、相手にとってそれがどうなのかというところまで考えると、意地悪をしたかったり、親切心からだったり、いろんな思惑と考えの中で行き着いた結果なのかも知れない。
だが、どうも受け入れられないひとだっている。
ただそれだけのこと、で良いんじゃないかと思うのだけど。
何故か、振り翳される誰かの正義。
言葉の魔力に取り憑かれた私は、本と占いが好きだ。
だが、取り込むも取り込まないも、自分が決める。
こう言われたからと言って、こうしなきゃいけないとは思えないタイプだから、「この人に会うとパワーをいただける」「これを持つと上手くいく」と言われても、それも自分の心に従うだけだったりする。
そんなひとも、この世の中には居てもいいだろう。
どんなひとも世の中に居ていいとは、本気で思っている。
ただ、他人に自分の生き方や価値観を合わせることを要求するひととは距離を置きたいタイプなんだな…と、2023年、泣きたくなるほど体感した。
家族だからといって、なんでも許される訳はないし、いつだってリスタート出来るのが人生。
そのリスタートをいつを目標に設定するかといったら、ただ今じゃないだけ。
そもそも、強く願わなくたって、いつか必ず物質的な別れは来るのだから、その辺りは冷静かつ計画的に目標を持てば良いんじゃないかと思っている。
問題に直面し続けて、必死で生き抜いた。
そんな2023年を越えて、2024年はどんな年になるのだろうか。
少しの物語を取り込みたくて、この本(3年の星占い)を手に取った。
時々、読んでいてウッとなりながら、自分の中に取り込まれていく言葉たち。
そして、その言葉を練りながら少しずつ落とし込んで、それを自分に還元していく。
そんな作業がとても好きだし、私が本を好きな理由かも知れない。
他人の誰にも届かないかも知れないし、誰にも必要とされない言葉かも知れないけれど。
今年は、たくさんの言葉をどこかでたくさん使いながら、薄氷の上を歩き続けたい。
最後に。
私は何故、いつも薄氷の上を歩き続けるのか?
その感覚が、自分にとって、最善で心地良いと感じているからだと思う。
割れそうで、裂けそうで、とても冷たい水がすぐそこにある。
人が健康的で衣食住を保障されて生きることへの運も、命の儚さも、日常の偶然や発見も。
薄氷と水のこの境目に、似てる気がしてしまう。
だが、私は、世の中のことはまだ何も知らないとは思う。
Jan.1 2024