「におい」のエトセトラ
自分の価値観は当たり前だけど、自分だけのものだ。だから自分にとっては「当たり前」でも、他人にとってはそうでないかもしれない。
今日みたいな雨の日、多くの人は「憂鬱だ」と思うだろう。でもわたしは、雨の日が好きだ。仕事の日が雨だったら、「これが週末でなくてよかった」と思うし、休みの日が雨だったら、「家でのんびり過ごす口実ができてよかった」となる。
もう一つ、雨の日が好きな理由は「匂い」だ。雨の日の匂いが好きなのだ。雨の降りしきる空気の匂い、湿った山の匂い、アスファルトに落ちる雨の匂い・・もしかすると雨の多い地域ではそうでもないのかもしれないが、これらの匂いは「非日常感」を運んでくる。いつもと違う匂いに、なんだかワクワクさえする。
他にも、好きな「匂い」はたくさんある。例えば、「冬の朝の空気の匂い」。寒い冬の早朝、窓を開けるとツンと鼻をつくような凍てついた空気は、冬の朝にしかない不思議な匂いをしている。それも真冬や冬の終わりではなくて、晩秋から本格的に冬が始まった季節に限って、この匂いがするのだ。毎年この匂いが鼻先を翳めるたび、「あぁ、冬が来たな」と、寒い冬が大嫌いなくせになんだか胸が躍ってしまう。そしてその空気を胸いっぱいに吸い込む。肺に冷たい空気が流れ込んで、シャキッと気持ちよく目が覚めるのである。
そして、花粉が舞い始める二月の末から三月の頭にかけて突如現れる、春を先取りしたような暖かい日。春一番ではない、そんな穏やかな早春の昼間、その「匂い」は突然やってくる。「春の風の匂い」だ。わたしは子どもの頃から患っていた花粉症が、なぜか数年前にパッタリと治ってしまったクチなので、春の訪れは飛び上がりたくなるほど嬉しい。その春の訪れを真っ先になにで感じるかというと、この「春の風の匂い」である。そしてそれは不思議なことに、わたしの中で「パリの春の風の匂い」とほぼ同義になっている。
理由はわからない。一つ考えられるのは、このとてつもなく心地よい「春の風の匂いがする日」は、春夏秋冬が薄れて久しい日本では年間でも数えるほどしかないのに対し、冬が長く夏が短いパリでは同じようにまた春が長く、「春の風の匂いがする日」が毎日のように続くからではないか、ということだ。パリの春はたった二度しか経験していないのに、毎年この「春の風の匂い」を感じると、「あ、パリだ」と思う。ここは東京なのに、だ。こればかりは感覚的かつ直感的なもので、パリに行く前にも毎年感じていた匂いのはずなのに、パリから帰ったその年から、不動の「パリの春の風の匂い」の代名詞としてその地位を固めた。それは同時にとてつもない懐かしさを運んで来るので、多分毎年この「春の風の匂い」を感じるたびに、パリを思い出すのだろう。
わたしはつい最近まで、こういった季節の折々に感じる「匂い」は、すべての人が等しく感じているものであると思っていた。自分の家族、友人、周りにいる人・・全てが同じように、季節の匂いを感じ取っていると思っていた。しかしながら、最近になって読んだ何かの本(思い出せないのが残念だ)に「自分は人より嗅覚が鋭いらしい」と気付いた著者のエピソードがあり、その思い込みは誤りではないか、と思うようになった。その著者はわたしと同じく「季節の匂い」を感じる人で、何かの拍子に「春の匂いがする」と口にしたところ、そばにいた友人から「それ、誰々も似たようなことを言っていた」と指摘されたというものだった。その著者も驚いたようだったが、それを読んでわたしも驚いた。
これまで当たり前に感じていた「季節の匂い」はもしかしたら、ごく一部の人に限られた匂いなのかもしれない。別にそれを感じたところで大金持ちになれるわけではないが、季節に対して敏感なのは間違い無く、それを季節折々の「小さな幸せ」と捉えてこれまで生きてきた者としては、それを感知できないのはあまりにも風情がない気がしてならない。
思えばわたしは、良くも悪くも人より嗅覚が鋭いような気もする。例えば、実家のタオルが驚くほど雑巾くさい件。これはわたしが物心ついた頃からで、それに気付いてからは家族で共用にしていた(!)フェイスタオルを、自分専用のものを使うように変えていた。母親に「このタオル、くさいよ(よくそんなので顔拭けるね)」と何度言っても、「え、そう?」と鼻先に持っては行くものの「全然わからないけど」と言われて終わってしまう。正直鼻が詰まっているとしか思えないのだが、まぁ百歩譲って、使っている本人が気にならないのであれば構わないだろう。
その考えられる原因として、これも感性を疑うのだが、母は夜に洗濯を回し、すぐに干すことしないで、洗濯槽や洗濯カゴに濡れた洗濯物を放置して、翌朝になって干す、というのを慣例としていた。夜遅くまで仕事をしていたし、それをわたしも手伝うということを一切しなかったので、文句は言わずにいたが(というかいうと怒る。素直に改善すれば良いのに)、正直なところ傍目にそれがものすごく嫌だった。それが雑巾くささの原因であることは一目瞭然だった。よって実家に住んでいた頃は、自分の使うタオルは洗濯に出す回数を減らしたり(一回使っただけで洗濯すると、すぐに繊維が傷んでバリバリになってしまうし)、使った後はよく乾かすなどして、自己防衛するしか手立てがなかった。残念ながら、両親が仕事を引退して隠居暮らしとなり、洗濯は朝回してすぐに干す習慣が根付いた今も、タオルの臭いは変わらない。
当たり前なのだが、タオルのように濡れた状態でいることが多いものは雑菌が繁殖して、いくら頻繁に洗っていても洗剤程度では、除菌・殺菌は期待できない。よく「生乾きでも臭わな~い♬」とか、「漂白化学!」とか物騒な洗濯洗剤をCMで見かけるが、そんな体に悪いものを使わなくても、煮沸消毒すれば一発で不快な匂いを取り除ける。というか、煮沸消毒しないことには取り除けないと思った方が良い。実際、あまりにわたしがタオルの臭いを指摘するので、ある時母が「強力除菌の漂白剤を使って洗ったよ」と言ってきたことがあった。が、その前後でタオルの臭さは全く変わらなかった。お金を払って買った上、体に悪いだけでなく効果もないなんて・・熱湯ならタダで効果抜群である。
なので、一人暮らしを始めてからは、「・・ん?」と感じるようになる前に、タオルや下着、シャツ等は煮沸消毒するようにしている。煮沸すると言っても、そんな衣類をグツグツ煮れるほどデカイ鍋は持っていないので、3ヶ月に一回くらい、消毒したい布類をブリキの洗面器に入れ、給湯できるMAXの温度60℃のお湯を八分目まで注ぎ、鍋に沸かした熱湯を上からジャバジャバとかけて、割り箸などで満遍なく回し、十五分ほど放置してから通常の洗濯をする、といった簡単なものだ。これだけで驚くほど臭いが取れる。身も心もスッキリ爽快である。以前これを母に教えたけれど、全くやる気配はないし、今でも実家に帰るとそこらじゅうのタオルは臭いままだ。驚くべき学ばなさというか、向上心のなさである。だから実家に滞在するときは、手を拭く時も自分専用のバスタオルを使い続けている。いつかわたしが母の代わりなって、実家じゅうのタオルを煮沸消毒してあげられるくらい、心の余裕が生まれれば良いのだけれど。正直、彼らは一日中ヒマで家にいるのだから、わざわざわたしが出張ってやることでもないだろうと、思っている。
においにまつわるエピソードはまだまだあるのだけれど、長くなりそうなので今日はこのあたりで。