好きと絶望と未来について①


大好きな人の見ている世界を見てみたいと思う。

大好きな人と視点を共有したいと願う。

その人の行動、言動を追い自分でその皮を着てみる。

しかし、いまいちピンとこない。

たしかに、舞台の演者と観客のように能動的に行動する側(演じる側)とそれを消費する側(観客側)では同じ事実(厳密に言えばそれは違うが)を起点として受ける印象や心持ちも大きく異なる。

だから、僕が大好きな人の世界を見るためにその人の皮を着てみたところで僕は行為者の見ている世界には到達できない。

では、もっとその人に寄り添い、その人の皮を被りながらその人が行なっているような行為や言動を能動的に行うことができたとしたらどうだろうか?

この場合も、僕の目論見は達せられない。なぜなら、いくらその人を模倣したところでその人自身の視点を得ることは不可能だからだ。

邦ロック好きの彼氏の影響で邦ロックが好きになったとしても、彼氏が好きなバンドの音楽を聴いたその印象やイメージと全く同じもの(世界)を彼女の側が見ることはできそうにない。

その彼女は彼氏自身ではないからだ。

もちろん、近しいものは見ることができるかもしれない。

しかし、その世界の細部や全てが見えない以上、また、観測者である〈彼女〉と当事者である〈彼氏〉が別の人物である以上、目論見は達せられない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?