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シーイズマイン

今年こそはもうこのままずっと終わらないんじゃないかと不安になっていた夏も呆気なく終わりを迎えてしまって、まるで誰かが片切スイッチを叩いたかのようにある日突然季節が切り替わってしまった。頭上では電球のような月が、誰のものでもなさそうに煌々としている。

季節は四季ではなかっただろうか。年に四回ほどの季節の変わり目に、心が敏感になる所謂四季シキニキであったが、二季ニキニキとしての生活を余儀なくされている。と思ったらやっぱり秋でないと説明がつかないことにも直面し、せめて三季ミキニキの今日である。こんな振り回され方をしても、季節を愛せるのは彼女の存在の所為だろう。

月の人称代名詞は女性の呼び名(she)で表される。
受験期及び思春期にその事実を知り、微かな破廉恥に息を巻いていた。対照的に緯度が高く冬の寒さが厳しい地域では太陽が女性となるらしい。いずれにしてもどの時代でのどの国でも、太陽と月は我々の憧れの象徴であった。

それでいうと月並みな話というのは、平凡でありきたりとして表現されるがどうしてだろう。見上げることしかできない我々がどの面下げて…と調べてみると、それは惑星ではなく、暦のことであった。毎月のように恒例のという語源から、現代では新鮮味がなく平凡なさまとして用いられるようになったらしい。それは月面ではなく、赤面であったってわけ。やかましいわ。

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彼女が地球に最も接近する日の夜、仕事終わりに新宿のミニシアターで「佐々木インマイマイン」のリバイバル上映を1人で見た。内容は全く変わらないのに、受け取り方がまるで変わっていた。ラストシーンのSE・爆音のドラムは、まるで全身をボコボコに殴られているような生の感覚がした。音がピタリと止みエンドロールが流れた瞬間、立ってもいないのに立ちくらみがしたのは初めてだった。上映後に登壇した主演・藤原季節が逆質問で我々に佐々木のような存在はいるかと投げかけてきた。佐々木は映画のなかで、偶像的なキャラクターとして主人公のなかに生きている。


大事な時の月はいつも見えない


月には叢雲が、花には風が、
分かっているから、誰にも何にも期待をしていないような気がしている。弱く脆い自分を守るためにこれまで人に対して、ずっとそうしてきた気がする。そんな私にとって佐々木は誰だろう。せめて答えが見つかるまでは、この映画の中の佐々木を、佐々木として私の中にとどめておこう。大切な映画が増えてゆく。

「佐々木インマイマイン」インマイマインだ。


2024年10月17日、彼女が地球に最も接近する日の夜、やっぱり叢雲がかかっていた。毎年の中秋の名月然り、これは多分私のものでいいと思う。

こんな歳になってまでよくもまぁつらつらと戯言が出てくるものだ。こんなことを話すことは稀に無いと信じたいし、そうで無いと困る。
年に一度の今夜だけ、そう、超月並みな話をしていると思いたい。

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