ねないこだれだ (1)
『わたしはきっとなにかを見落としている』
【概要】
調停の話しあいが終わるまでは会わないと約束していた夫・有村遼から自宅に押しかけられて、金の無心をされた〝わたし〟は、有村遼の殺害を決意する——。
【 1 】
「――わたしです」ほかに選択肢などあろうはずもない。「わたしが殺しました」
思慮を巡らせて、完璧に遂行したつもりでいた。賞レースに毎回ノミネートされる有名女優にも劣らない演技で、偽りを真実に変えることができたと思っていた。
「……殺した? いま、殺したとおっしゃいましたか?」
ヨレたグレーのコートを腕にかけた中年の刑事が、わたしに問いかける。震えはじめた指を隠すべく後ろ手で組み、静かに息を吐いて刑事を正面から見据えた。
「わたしが、有村遼を殺しました」
言い終えるなり、背後から物音が聞こえた。顔を向けると扉が開いていた。自室からでてきた息子のトウマが、不安げな顔でわたしを見つめていた。
「おかあさん?」
呼ばれた途端に唇が震えだした。腰に力が入らなくなってへたり込み、震え続けている指でパンツの裾を掴んだ。鼓動が早い。上手く息を吸えない。トウマが近づいてくる。可愛らしい足音が中耳で響く。トウマの姿はぼやけて見えた。
「おかあさん」
左肘にトウマが触れた。わたしはトウマを引き寄せて縋るように抱きしめた。そして気がついた。いまさらながらに気がついてしまった。間違っていたことに。犯してしまったあやまちに。トウマを守るつもりが、家族を守るつもりが、完膚なきまでにすべてを崩壊する最悪の選択をしてしまったことに気がついてしまった。
〈つづく〉