「祭り」について考えた。 五輪閉会式の感想
閉会式をNHK +でみました。うっかりしていたらオリンピックは終わってしまい、見逃し配信も終了ギリギリでした。画像は生成AIを使って作ってみたものです。
熱狂から少し距離をおいて
実は、ほとんど競技を見ていないのです。時差もあったし、甲子園もあったし。
毎朝目覚めると、スマートフォンに「誰が金メダル」という通知が来て、ニュースで注目種目の結果を見ていましたから、拒否していた、というわけではありません。でも、テレビのコメントの口調や、メダルの数の報道は、正直なところ、私には心地よくなかったのです。
国土が戦場になっている国から来た選手がいて、難民選手団というチームがあって、参加すらできないアスリートたちがいて、実際の戦火が燃えているわけではないにしても生きづらさや言いようのない不安に直面している国もある。
そんな中で、メダルの数を予算化されて、国の威信をかけた必勝を強く要請されている臭いがするのを嗅ぎたくなかった。敢えて言葉にすると、そんな感じです。
あと、敗れたばかりの選手に「今のお気持ちは」とインタビューするのがなんだか気色悪かったです。
勝つために青春の全てをかけて壮絶な努力を重ねてきたとしても、報いられないこともあるのはスポーツの道理です。アスリートに対してもっと敬意を払うべきだと思うし、勝負の直後にかける言葉や態度は、もっと別なものであってほしいと、私は、感じてしまうのでした。
110人によるパフォーマンス
でも、やっぱり閉会式のショーは、楽しみでした。
パフォーマンスはストーリーダンスになっていて「ゴールデン・ヴォイジャー」が旅の果てにたどり着いた荒涼とした地上に、調和の取れた世界の象徴としての大きな五つの輪が再構成されていく、というような物語でした。
アナウンサーによれば、パルクールのプレイヤー、ブレイクダンスのダンサー、パリ市消防隊の体操部のメンバーら、110人のパフォーマーによるパフォーマンスだとのことでした。
あっ、ゴールデン・ヴォイジャーを合わせると111人のパフォーマーですね。
ゴールデン・ヴォイジャーの衣装はとても綺麗でした。オーラのような光がいく筋も溢れだしているような、華やかで大きな衣装でした。マスクに隠れている顔の部分を修正して、ショーの衣装としてアレンジしたものが、近いうちに宝塚の舞台で観られるんじゃないか、などと想像してしまいました。
110人のパフォーマーの衣装は、顔も体も白く包まれて、個性も表情も消されているもので、私の個人的な好みには合わないものでした。
振り付けは、スタジアムの空間を人体の動きで満たし、同時に世界中に中継される放送の画面を満たすためのもので、ハイレベルで、一発勝負のライブパフォーマンスの緊張感にあふれ、固唾を呑んで見ながら何度も感動していましたが、その技を決める時の緊迫した表情、決まった時に思わず見せるドヤ顔、仲間と視線を交わし合う気配などを、見たい見たい見たいと思ってしまいました。
顔を隠す衣装
人体を、「両手、両足、胴体、頭部」だけに単純化した形状の塊として使うとき、その表現に普遍的な美を感じ取ることができるか、感動の心地よい余韻を味わうことができるか、と問われたら、私自身は、どちらかというと否定的な気配を込めた答えを出しがちです。あくまでも好みの問題ですけど。(「スター」を観るのが好きなので、仕方ないです)あ、この記事のタイトル画像にはその気分をちょっと反映させています。
でも、そういえば、開会式で、聖火を持ってパリの街を縦横無尽に駆け回った「マスクマン」も、トロカデロ広場にオリンピック旗を運んできた「銀色の騎士」も、顔を隠していました。
マスクマンも銀色の騎士も、具体的な個人を表しているわけではなくて、とても「象徴的な存在」でした。
だとすると、今回パフォーマンスを演じた「人々」のことも、象徴的な存在なのだと捉える方が良さそうですね。
「声なき言葉」を響かせる
私にとって、どうしようもなくもどかしい感じがあったのは確かですが、110人ひとりひとりが力を合わせることで完成したパワフルなパフォーマンスだったこともまた事実です。
息を揃え、タイミングを図りながら、誰かがうっかり気を散らしたら大怪我につながりかねないような技が次々に繰り出されていく姿からは、蟻塚や蜂の巣から感じ取る生命の神秘に反応するときとは、全く質の違う感動を感じとりました。
この演出の意図を私が読み取るとしたら、こうなります。
もし衣装から顔を出してしまえば、表情まで統制されてしまう可能性があります。それでは開会式と閉会式から一貫して感じ取れるテーマとは別ものになってしまいます。個人と全体との境界線を敢えて曖昧に溶かしていったことで、民衆による「声なき言葉」が力強く響きわたる音を、スタジアムに姿として表現してみせてくれた、ということなのではないかな、と思います。
祭りのエネルギー
オリンピックを見ながら「祭り」について、考えていました。なぜ人類は「祭り」を楽しむのか、というその理由について。
厚い皮も牙もツノも鋭い爪もないホモ・サピエンスがいま世界に満ちているその訳は、集団で生活する利点を活かして生き延びてきたからだ、ということについて。
生物の個体としてはとても貧弱なホモ・サピエンスにとって、集団で暮らすこととは、存続につながる根源的なパワーを生み出す基本戦略だったはずです。
そして、その集団の中に、機能や特性の異なるものを内包することは、生き延びるために必要で欠くことのできない合理的な作戦だったはずです。
これが、社会に「多様性」が必要な理由です。
人類史の研究の中で、ホモ・サピエンスは、集団で力を合わせて補い合って生き延びてきた、ということは、定説になっています。
(比較的少ない人数の集団だったネアンデルタール人は、体格が良くて強かったはずなのに絶滅しています)
でも、異質な者同士の集合であるからには、集団の内部で諍いや軋轢が生まれたり、隣接する集団と衝突したりした可能性があるはずだと思うのです。
遺跡には残りづらいので根拠はないのだけれども、祖先も人であるからには、多分きっと、そんな感じだったのだろうなと思います。
その不調和をなんとかしなければ、集団の維持に悪影響が出てしまうから、
そんなことにならないように、時々「ガス抜き」をしていたのではないかしら。
普段大切にしている枠組みや価値観を、取り払い、棚上げして、
エネルギーを混ぜ合わせ、カオス的なイベントで解放する、という行動は、
集団を維持するための大切な安全弁だったのではないか。
一時的な興奮や熱狂をみんなで共有することで、
他者とうまくフィットできない摩擦感を浄化する、払拭する、リセットする。
収穫に感謝を捧げるとか、超自然的な存在に守護を願うとか、
そういうもっともらしい理由は一旦棚上げして、
みんなで楽しく馬鹿騒ぎをして盛り上がって面倒なことはすっかり忘れる、
そういう、シンプルなイベント。
それが「祭り」だったのではないか。
それが、集団に組み込まれた「祭り」というシステムなのではないか、と、
私は想像するのです。
そして、祭りが終わったら、何だかスッキリしてしまって、
ドロっとしたものやネバっとしたものは浄化されていて、
以前と同じように見えるけど実は心機一転した生活が、始まっていくの。
現代のホモ・サピエンスの世界には、そんな祝祭的イベントがやっぱりどうしても必要なのかもしれないな、4年に1回、いや、冬季の大会を合わせると2年に1回くらいのターンで個人を集団の熱狂の中に溶け込ませていくような体験があるってことは、ひょっとしたら社会全体の安全弁になっているのかもしれないな、と、今回のオリンピック閉会式のパフォーマンスを見ながら考えていたのでした。
壮大なお花畑が満開になる光景を幻視しながら、戦争なんか一刻も早くやめにして、ドス黒い思念なんかはもう全部スポーツの熱で蒸発させて昇華させて、スポーツを極限まで競い合う、よろこびの炸裂する祭りに酔いしれていたいものだなあ、
なんて、考えていたのでした。
より高く、より早く、より遠く
全ての選手が、自分には何度生まれ変わっても絶対にできそうもないことをやってのけています。心から喝采を送ります。
いくつかの競技の様子が、強く心に残っています。
スポーツクライミングのそそり立つ高い壁を、小さな手がかりを掴みながら登っていく小柄な女性の姿。
マラソンなのに箱根駅伝みたいに急な登り坂を、余分な要素が削ぎ落とされたしなやかな身体で走っていく女性の姿。
陸上競技のフィールドで、鍛え上げられた筋肉を豊かに身につけた大きな女性が、槍をいちばん遠くまで投げる姿。
本当に、胸が締め付けられるように美しい姿でした。
閉会式で流れた「今大会を振り返る映像」が、とても良かったです。
競技中の真剣な姿、歓喜の姿はもとより、転倒、失敗、落下などの苦しみに満ちた姿も、涙も、悔しさに震える姿も、深い印象を残しました。
胸を熱くしながら、何度かリピート再生しました。
人間の身体が体現できる「究極的に美しいもの」を見ることができたのだと、
感じています。
このあとにも、究極の姿を、観る
でもまだ、パラリンピックがあります。人間の身体が体現できるもっとも極限にある美しさに、パラリンピックで直面し、正対することができます。
うっかり気楽なスタンスで見てしまっては、私には到底味わい尽くせないものですが、それを観る感激を、東京大会で経験してしまっています。
今は、その究極的な美しさと対峙するために、心構えを固めているところです。
もう少しの間、「祭り」を味わえますね。