「ばら」はいつも特別
「ばらの騎士」の鑑賞について書いてみます。タイトル画像はシュワルツコップが演じた元帥夫人の写真にインスパイアされて描いてみたものです。
1. 友達を誘って鑑賞
みのりちゃんと一緒に
2022年4月3日、新国立劇場で「ばらの騎士」を鑑賞したときの感想メモが出てきました。大切な友達、みのりちゃん(仮名)を誘って2人で劇場へ行きました。
彼女とこの演目を観たのは2回目です。最初は、2007年6月15日でした。
みのりちゃんとは、職場で知り合いました。じゅうぶんに大人になってから知り合ったみのりちゃんは、大切な友人の1人。
彼女と「ばらの騎士」を並んで観る、その楽しさは、格別です。
まだコロナ禍警戒モードでした
この頃はまだコロナ禍への警戒態勢も緩んでいない時期で、「誰かと一緒に行く」という行動には慎重になっていました。そんなときに、なぜ一緒に観ようとしたのかの理由はメモや日記には残っていませんでしたが、今にして思えば、「ひと恋しかった」のだと思います。マスクのままで、会話や談笑を極力控えながら、反省会もパス、となりましたが、
心通う友達と隣あわせに座って、二人でふるふるふるふるしちゃった体験でした。
2. 「ばらの騎士」ストーリー紹介
ざっくりと、あらすじ
元帥夫人(マリー・テレーズ)は、夫の目を盗んで若い恋人オクタヴィアン(メゾソプラノ歌手が演じる)と逢っています。夫の元帥が狩で不在なので今朝も2人は寝床の中で語り合っていましたが、夫人の従兄弟のオックス男爵が訪問します。貴族ではない金持ちの娘ゾフィとの縁談をまとめるために、貴族の求婚儀礼の使者である「ばらの騎士」役を担う若い貴公子を紹介してほしいと夫人に頼みに来たのです。夫人はオクタヴィアンを「ばらの騎士」役に推薦します。そして夫人は、突然、次の季節の気配を予感します。
ゾフィの館を儀礼通りに訪れたオクタヴィアンを一眼見て、ゾフィは彼に心を奪われ、オクタヴィアンもゾフィに強く惹かれます。儀式の後、オックス男爵は正式にゾフィを訪れますが、彼があまりに尊大で下品なのを嫌悪したゾフィはこの婚約を破棄したい思いをオクタヴィアンに打ち明け、決闘騒ぎなどの後に男爵を懲らしめる作戦が展開されます。
女装したオクタヴィアンが男爵を誘惑して不適切な異性交遊に陥れる、というその作戦はドタバタのうちに成功して男爵は退場。ゾフィとオクタヴィアンのカップルは無事お互いの心を確認しあうのですが、若い2人を幸せに導いた元帥夫人の存在に否応なく気付いた彼らの心も大きく揺れます。元帥夫人は若い2人の幸せを願いながら、静かに身を引きます。
嘘を取り混ぜて
不道徳で退廃的で皮肉なのにお伽話のようでもあるこの物語、舞台背景を18世紀のマリア・テレジア時代に設定した創作物語です。そもそも、娘の元へ「ばらの騎士」が使者として訪れて、花婿の求婚の意思表示をして婚約を成立させる、などという風習は、ないのです。
でも、風紀警察が不道徳な行動を取り締まる社会、とか、貴族階級の下り坂傾向と平民で金持ちのブルジョワ階級の勃興とかの、リアリティ要素も含んでいます。
スラップスティックでドリフターズのコントみたいな展開なのですが、
このオペラは、繊細で、陰影に彩られていて、とても美しい。
友達と二人で観ているとこそばゆくなるくらいの、オトナの世界のお話しで、
そりゃもうお下劣で、ずるずるに退廃的なのですが、だけど、その泥の中から、
信じられないくらい美しい結晶が生まれてくるのを、観客は目撃するのです。
本格的な大人でないと、この美しさを味わうことはかなり難しいだろう、と、
わたしは思っています。
3. オペラの感想
劇場からの帰り道にメモした感想
美しき元帥夫人、マリー・テレーズ。彼女の‘かそけきため息’が、伝染する。
彼女の上を流れる「時間」は、汗と涙で汚れた自分の上にも流れている。
マリー・テレーズが直面する悲しみは、このわたしの上にも流れこんでくる。
いつか、このオペラを泣かずに見られる日が来るとは、とても思えない。
第1幕の後半の、彼女の歌が、ドラマの始まり。恋のアバンチュールの場が、
前触れなく突然「暗く深い森の中」に変換した、あの瞬間。
彼女は、あの瞬間、オクタヴィアンを置き去り、森の中に迷い込んでいく。
今日いちばんの痛みを伴って沁み込んできたのは、あの歌だった。
人生の転換ポイントは、突然現れるもの。
それが現れてしまったら、無邪気だった頃に逆回転させることは、もうできない。
多くの場合、はっきりとは気が付かないままに目の前を過ぎていくのだろうけど、
時々、たったひとりで、その意味を理解してしまうだけの智慧を持ってしまう。
誰の力も借りずに「これが不可逆的な転機なのだ」と知る。
こんな、孤独なことって、あるのかしら。
いや、孤独っていうのは、つまり、そういうことなのだろう。
第3幕の、元帥夫人とオクタヴィアンとゾフィの女声三重唱はまさに醍醐味。
それぞれの噛み合わない想いを同時に表出させる、オペラ表現の真髄。
今日は特に酔いしれた。
それぞれが自分の心情を歌っているのだけど、どれも独り言なのだ。
むしろ3人ともが、その声を誰かに聞かれたくない状況でいるのだ。
それなのに、えもいわれぬ美しい女声三重唱が成立している。
ここでも、最も胸を打つ旋律は、恋の戦いにおける敗北を受け入れて、
自らの誇りを保つために最善の(自らにとって悲劇的な)シナリオを完遂させる、
勇敢なマリー・テレーズの歌唱に、任されている。
本格的にオペラを好きになった頃のわたしは「既に経験値の高まった状態」だった。その頃、新国立劇場で「ばらの騎士」を観ている。
元帥夫人に心が揺さぶられるのは、わたしが大人だからだな、と思ったものだ。
わたしも時間に容赦なくヤラレていくひとりだから、これからもきっと、
彼女の苦しみ、賢さ、潔さに、触発され、いつまでも勇気づけられるだろう。
美しく敗北を受け入れることが、静かに老いていくことこそが、
本当の勝利なのだ、と、思うだろう。
あのとき、一緒に泣きながら観た友人が、今日も隣の席にいて、
今日も、共に涙を流していた。
これからも、このオペラはわたしにとって特別な作品のままだろうと予感する。
この感想メモ、今読むと
この日のわたしは、少しペシミスティックな味付けで、物語の主人公の世界に自分の存在を重ねて読み取ろうとしています。
年齢を重ねながら、次の自分がどうなるのか、考えています。
日記を読むと前週あれこれ事件があったせいか悲観的になりがちだったようです。
4. 観劇の記録と上演の記録
観劇の記録
本棚から探し出してきたプログラムは5冊。どれも新国立劇場のプログラムです。
年と月が確認できたので、手帳をめくって鑑賞した日を特定しました。
2007年6月15日(金)18時〜 (みのりちゃんと)
2011年4月13日(水)14時〜
2015年5月24日(日)14時〜
2017年12月6日(水)14時〜
2022年4月3日(日)14時〜 (みのりちゃんと)
上演の記録
プログラムから、新国立劇場ではこのオペラを5回上演していることがわかりました。「新国立劇場 過去の公演記録」が一覧表で掲載されているのです。この公演を毎回1度ずつ、合計5回、鑑賞したことがわかりました。
指揮者も歌手も毎回違いますが、演出はすべてジョナサン・ミラーによるもの。
丁寧に作り込まれていて上品で、音楽の世界観を膨らませて、邪魔しない、
それでいて、鋭い牙をはっきりと懐に含んでいる。この演出が大好きです。
Production Noteからの引用
どのプログラムにもプロダクション初演時2007年5月の演出家の談話が掲載されています。5回の鑑賞のその度にプログラムを読みますから、この言葉に5回出会っていて、今回また改めて出会いました。ひどく印象的な言葉です。引用します。
オペラの演出家とは、物語を具現化するために、
あらゆる種類の陳腐な慣習(cliché)を排するための存在です。
人物群を、観客の皆様が身近に感じられるような存在として動かすのです。
それなら、観客であるわたしは
それなら、観客であるわたしは、演出家の意図に対してどう臨むのが良いのか。
演出家ジョナサン・ミラーのこの言葉から発せられた問いは、
今もわたしの心の中に、基本的な問いかけとして存在し続けています。
最初にこの言葉を読んだ頃は、DVDなどで不思議な演出の作品を何本もみて、
「この演出では音楽を素直に楽しめないよ」と異議を感じていた頃でした。
異議というからには、わたしの中にも、感想が湧き上がっているのです。
人物群が演出家によって観客の身近なところまで連れて来られているのだから、
わたしは音楽物語世界の身近なところには居る、ということなのですから、
心に波風をたっぷり動かして、演出家の意図を受け止めれば、いいのです。
「それなら、観客であるわたしは、どう感じたのか」
この問いに対しては、定型文で簡単に答えるわけにはいきません。
簡単な答えとは、「あらゆる種類の陳腐な慣習(cliché)」の一つであって、
それは、ジョナサン・ミラーが全力を傾けて排するものなのですから。
観客であるわたしは、演出家からの重大な問いかけを確かに受け止めたので、
こうしていつまでも考え続けているのかもしれません。
5. 毎回、感想は変わる
同じ演目を同じ演出で観ても
どうして「ばらの騎士」を何度もみて、その度に「ああ、これは好きなオペラだ」
と感じるのでしょうか。
「好き」に理由はない、と言ってしまえばそれまでですが、それもまたクリシェ。
心の動かされ方が、その時々で少しずつ違うから、という理由はどうでしょう。
「わたしの心」は、その度に、変わっている。
日々の生活を生きているから、時々に心持ちのバランスもうつろっている。
感想とは「作品を受容して、作品が自分を通り抜けた」その反映なのだから、
その時々に、心が動くポイントも変わっているのだ。
うつろう自分、揺らぐ自分。成長する自分、失っていく自分。
それを発見するための定点観測のような演目だからだよ、と、
言えるのかもしれません。
次にこのオペラを観たときに、何を感じるのか、
別の演出で鑑賞したらどうなるのか、是非とも確認してみたいです。