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哲學思想日記 2023-W40/41 — 夏休みの思い出

2023-10-02/15


近況

今年の夏休み。色々あったとも言えるし、何もなかったとも言える。どちらかといえば後者だ。

今はあまり頭が働かないけれど、やったことと起こったこととできなかったことを羅列する。そのうち詳しく書くかもしれない。

8月上旬。インターンシップに行った。ほぼ每日電車の中で泣いた。每朝お腹か頭が痛かった。別にパワハラとかなかったし、嚴しいところでもなかったし、平均的感受性の人なら「ラク」な職場だったと思う。けれど、第1に、愛想笑い(に象徵的な社交辭令)が苦痛だったのと、第2に、自分の夢が潰えてしまう現實がつらかった。あとやっぱり〔私は今院生なのですが〕學部生時代すでに就活を經驗して、すでに期待が幻滅濟みなのも、就活がうまくできない原因かもしれない。

8月中旬〜9月下旬。8月いっぱいはたまにあったインターンシップの殘りを消化。硏究職を目指すことを親に反對されていたので、未來が見えず、自暴自棄の日々を過ごす。後期が始まったあたりで硏究職を目指すことを認めてもらったが、遲すぎ。なんで親の反對とか氣にしていたんだろう。無視しておけばよかった。そうすれば夏休みをもっと有意義に使えただろうに。

夏休みにしておくべきだったのにできなかったこと。(1) 某公的給付型奬學金制度を意識したアレコレ。論文書くとか。(2) 語學勉強。何にでも役立つし博士課程の入試もあるし。(3) 專攻を少し變える手續き。

でも本は少し讀んだ。田川建三の本が面白くて、7册くらい圖書館で借りた。

あと夏休みが終わったころ、強めの精神的症狀が出た。病院に傳えたら、今飮んでいる藥を減量して樣子を見るよう言われた。發作みたいに1日だけ突然出て、その後は徐々におさまっているかな。

そんな個人情報公開してどうすんの?って感じかもしれないけど、まあこれは自分用の記錄でもあるし。

哲學

飜譯はいかにして可能か? いや、正しくは、古典語の飜譯がいかにして可能かを問題にしたかった。現代語の場合、話はそこまで難しくないと思う。たとえば通譯としてそれぞれの言語話者の意志疎通(言語ゲーム!)を仲介する例が理解できれば、文字言語の飜譯もその類比で理解できよう。ただ、古典語の場合、もはや音聲言語を話す人はいないし、文字言語としても、たとえば最も有力なラテン語で意思疎通できる人さえごくわずかであろう。だからこそ、古典語の飜譯の正しさをどう正當化するのか氣になっていた。

ロゼッタ石は面白い例だ。とりあえずロゼッタ石發見時點で(ヒエログリフ、デモティックと倂記された)古典ギリシア語が古典語であった事實は無視しよう。古典ギリシア語が現代語で、現役音聲言語だったと假定しよう。そうすると、大雜把に言えば、理解可能な言語と未知の言語との對應關係がわかれば解讀・飜譯できることになる。

もっと簡單な例として、飜譯なんて辭書と文法書があれば濟むように見える。これが正しいと假定して、それでは、辭書と文法書はどうやって作るのか? 言語學的調査によって。どうやって言語學的調査をするのか? フィールドワークによって。しかし古典語の古代世界はタイムマシーンでもない限り、フィールドワークできないではないか!

この問題の答えを知っているわけではないので、素人が頭で考えた暫定的假說を披露して終わるだけになってしまうが、結局のところ、誰かが古典語の知識を保存し續けてきたことが古典語飜譯可能性の原因なのではないか? 漢文なら訓詁學・考證學とか、ラテン語なら中世修道院とか、ギリシア語ならビザンツ知識人とか。音聲言語としてはすでに死んでいても、文字言語としては絕えることなく生き續けていないと、飜譯って不可能になると思う。

でも言語學者が書いた本などを讀んで實際に言語をどう調査しているのか確かめた方が良いでしょうね。

井上忠(いのちゅう)の本を讀んで「ぶんなぐられ語」という槪念を知った。たとえば誰かが檜を指差して「これはなんですか」と尋ねてきたとき、「それは檜です」と答えたら普通はぶん毆られるはずなのに、哲學者はそういう例文ばかり考えるという話。

タレース (Θᾰλῆς) は「萬物の起源は水である」と言ったそうだが、それってどういう意味なんだろう? つまり、古代的意味での元素ってなんなんだろう? 現代的意味での周期表に載っている元素ならその明確な定義や、手順を踏んだ元素への分解が可能だろう(私は理科に弱いのでどちらも知らないが)。でも、タレースはどういう意味で水が元素だと言ったんだろう?

というより、そもそもこの疑問に至ったのは、アリストテレースが「火は熱の原因であり、四元素の1つである」と主張していて、これはいったいどこから解釋・反論したら良いんだろうと途方に暮れたから。

私はかつて、「分析哲學が科學を基礎づけたり日常言語の用法から科學の意味を探ったりしても、それは科學的發見ではないのだから、原理上ノーベル賞を絕對にもらえないだろう」と(いう趣旨の文を)書いたことがある。科學哲學は科學ではないはずだ。たとえば、物理學の言語を精緻に分析してもノーベル物理學賞は未來永劫絕對にもらえないだろう。なぜならそうすることでは物理學的事實を何一つ發見できないから。

今私は、元素の意味を問題にしていた。科學的槪念の意味についての硏究は、當該科學の對象に關する事實を明らかにするものではないとしても、それでもなんらかの知識であろう。その知識の屬する領域は、科學史など歷史學か、あるいは言語學の一分野になるのではあるまいか。


編集・執筆:2023-11-06
寫眞:Mirosław Gierlach from Pixabay
今日の一曲:Run Away / Keiju


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