一時的投稿(あとで消󠄁す)
死ぬのが怖い。なぜなら、一度死んだら、自分が死んだということにすら氣付けない無意識が永遠󠄁に續く(少なくともその可能性がある)から。しかし、なぜ死んだら二度と生き返らないと思うのか? これまで誰も生き返󠄁らなかったから? たしかに科學的に確かな仕方で生き返󠄁った記錄は無い(ラザロやイエス樣の復活は科學というより信仰の問題であろう。もし歷史上それ自體で本當にイエス樣が3日目に復活して墓を空(から)にして弟子たちの前󠄁に現れたのち昇天していたとしても、それを確かめる術󠄁(すべ)は殘っていない)。けれども、それはいわば「肉體」において復活した人はいないということだ。私が望󠄂む復活は單なる私の肉體の再󠄀生ではない。「歲の離れた雙子」であるクローンを作って貰いたいわけでも、私の振る舞い(behavior)をするロボットを作って欲しいわけでもない。そんなものは何の慰めにもならない。というのも、私が「死」という言葉で意味していたことは、まさしく意識の不可逆󠄁的な消󠄁滅であり、意識とは醫學的な「意識不明」といった意味での意識(外から見た意識)ではなく、現に存在する私から見た、「我惟う故に我在り」の〈私〉であるから。その場合、私が〈私〉であるということは「科學的に確かな仕方」で絕對に確かめられない。だから本當に復活していないのかどうかは確かめられない。裏を返󠄁せば復活しているかもしれない。けれども、その場合、生きているいわば「現世」の私の記憶が無ければ(つまり一般の日本人が理解する佛敎の敎義の輪廻轉生のような場合)、そんな存在が未來に存在したところで、同じく慰めにならないだろう。なぜなら、そのような人は、「現世」の私の記憶が無い點で、現在時點における他者󠄁と大して變わらないから。けれども、それでは、「現世」の私の記憶を持って復活した未來の〈私〉は現在の私から見て〈私〉と呼べるのか? あるいは、復活などという思考實驗を俟たずとも、そもそも未來の私は私なのか? 「現在の私」の記憶を持っているだけでなぜその未來人が私なのだ? 反對に、「現在の私」が記憶を持っているだけでなぜその過󠄁去の人が私なのだ?
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