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interview Thandi Ntuli:ポスト・アパルトヘイトの南アフリカを癒すピアノの響き

南アフリカは世界屈指のジャズ大国だった。アフリカのジャズと言えば、ダラー・ブランドやヒュー・マセケラをはじめとした南アフリカのレジェンドの名が浮かぶという人も少なくないだろう。

そんな南アフリカのジャズはUKのBrownswood recordingsが『Indaba is』という編集盤がリリースしたこと、名門ブルーノートがンドゥドゥゾ・マカティニと契約したことなどにより、2010年代末、何度目かの脚光を浴びることになった。

何人かの名前がその中心人物として知られることになったのだが、その中でタンディ・ントゥリの存在感は特に大きなものだった。

不思議なスタイルのピアノと、不思議なスタイルのヴォーカル。作品ごとに変わる音楽性。そして、明らかに強く何かを訴えているタイトルや曲名や歌詞、アートワーク。デビュー作こそ、オーセンティックなジャズだったが、徐々に言葉にし辛い何かに変わっていった。そして、2023年にはシカゴのInternational Anthemと契約し、カルロス・ニーニョとタッグを組み、また不思議な作品を発表した。

その存在感、そして、その圧倒的な個性がどこから来たものなのか、僕はずっと関心があった。いつか彼女と話をしてみたいと思っていた。

取材・執筆・編集:柳樂光隆 | 通訳:渡瀬ひとみ | 協力:EACH STORY


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◉ケープタウンでの仲間・先人

―― 10代のころ、あなたはどんな音楽を聴いていましたか?

ソングライティングをしているアーティストが好きだったからインディア・アリーとかローリン・ヒルの作品は好きだった。主に90年代のR&Bミュージックも聴いてた。

――ピアノをやり始めたのはいつ頃ですか?

ピアノは4歳の頃から。クラシック音楽から始めたから、習いながら色々な段階を経てきた。

――University of Cape Townではジャズを学んだとのことですが、そのころ学んだことで特に印象的な授業やアンサンブルがあったら教えてください。

大学に通っていた頃に印象的だったのは、その時に住んでいたケープタウンの街。とても才能のある面白いアーティストたちが同時期に学んでいたから、彼らとUCTで学べたのはとてもラッキーだったと思う。ボカニ・ダイヤ―(Bokani Dyer)とか、ベンジャミン・エフタ(Benjamin Jephta)とか、シェーン・クーパー(Shane Cooper)カイル・シェパード(Kyle Shepherd)がケープタウンにいて、とても勉強になる環境に自分自身が吸収されていたという感覚だった。

ケープタウンはジャズに関しては特別は街。ここには若い人たちがジャズをやっているコミュニティーが存在する環境がある。こんなに多くの若い人たちがジャズをやっているのを今まで見たことがなかった。私はジャズという音楽は常に年齢層が上の人たちがやっているって環境で育ったから。だから、私よりも若い人たちがジャズを演奏しているのを聴いて、すごいと思った。しかも、みんな素晴らしい。街そのものも、南アフリカのレジェンド的な人たちがいっぱい住んでいた。ふらっとジャムセッションにいたり、本当にその辺にレジェンドがいたの。最近亡くなっしまったんだけど、たとえば、Alvin Dyersはそんな存在だった。学校外の課外活動で多くの先生たちに出会うことができた。

――Alvin Dyersの指導を受けたりも?

彼は私の先生というわけではなかったんだけど、毎週ジャムセッションを主催していて、Cape Townのコミュニティーの中では、とても影響力がある年長者だった。若い人たちの励みになっていたと思う。大学で直接教えてくれたのは、Andre Petersen とか、Andrew Lilley。彼らが私のピアノの先生。

◉研究したピアニスト

――大学のころに特に研究したピアニストがいたら教えてください。

インプロヴィゼーションを学ぶという意味においては、大学はビバップを集中的に教えるプログラムだった。私はウィントン・ケリーがすごく好きだったから彼の音楽を学習していた。私がバップに入れ込むまでには、結構な時間がかかったんだけど、ウィントン・ケリーの音楽に関しては、とてもリリカルでソウルフルだと思った。彼の奏法もリリカルでソウルフルだと思ったし、メロディックなところが彼の演奏の魅力だと感じた。他にはマッコイ・タイナーも好きだった。南アフリカのアーティストに関しては、モーゼス・タイワ・モレレクワ(Moses Taiwa Molelekwa)が好き。

――モーゼスだったら『Genes And Spirits』とか?

そうそう。そのアルバムは私が一番最初に聴いた彼のアルバム。彼のピアノのアプローチの仕方にとても興味を持った。

――モーゼスはどんなところがすごいと思いますか?

私がイデオロギー的に惹かれていたようなところを網羅していた人だと思う。そのころ、私は自分の音楽で自分のアイデンティティー的なもの(を表現すること)に取り組んでいた。例えば、クラシック音楽は私の伝統の中にあるものではなく、受け継がれたものだと思う。ある意味ジャズもそういうもの。大学でジャズを学ぶとしたら、まず大抵はアメリカの文化の中にあるジャズを学ぶことが多いと思う。モーゼスはこれらの影響元を全て混ぜ合わせていた。そのうえでアフリカのリズムを取り上げて、それを探求していた。それがアフリカ人である私を描写しているものに一番近い形だったと思った。そういった様々な音楽の影響のミクスチャーな部分にすごく共感した。

あと、彼はクワイト(Kwaito)というジャンルに関してとても楽器的(instrumental)なアプローチで取り組んでいた。クワイトは私たちのヴァージョンのヒップホップのようなものでもあり、90年代に出現したアフリカの音楽でもあったから。だから彼の音楽的な背景みたいなものにとても共感できた。彼の音楽にはジャズに影響を受けてきているのが聴きとれたと同時に様々なアフリカン・ミュージックに傾倒していたことも聴きとることができたから。

――モーゼスは幅広い時代のアフリカの音楽をジャズと同居させていたと。自国のピアニストだとベキ・ムセレク(Bheki Mseleku)はどうですか?

もちろん、好き。私の先生のアンドリュー・リリーも彼の大ファンだったから。ベキはコンポーザー、インプロヴァイザー全ての面においてオール・ラウンドに出来ている人だった。彼の方がジャズの要素を全面的に取り入れていたけど、同時にはっきりとアフリカ音楽の要素も取り入れていた。私は特にコンポーザー的な側面からすごく好きで、フェイバリット・アーティストの一人だと思う。

――コンポーザーに関してはどんな人を研究してきましたか?

特に勉強していたことはないかもしれない。ジャズのパフォーマンスは勉強していたけど、作曲に関しては、ジャズミュージシャンの音楽を学ぶ中でソロを採譜したりしていたから。大学に通い始めた頃は、作曲を勉強したかった。でも、インプロヴィゼーションの技術を学ぶことによって、作曲の技術を身につけることができると言われたから。

とは言え、ホレス・シルヴァーの曲作りには魅了された。ベニー・ゴルソンの曲作りもけっこう好き。でも、彼らのことはコンポーザーとして学まなんだわけではなかった。ジャズのことを勉強している間に彼らの音楽を知ったという感じ。ベニー・ゴルソンは、Art Blakey and the Jazz Messengerを聴くようになって知り、彼の作品にも触れるようになった。

――でも、あなたの音楽はもっとコンテンポラリーですよね。

たしかに。環境的なものもあって、私たちの世代はNYの若いミュージシャンの間で起こっているようなものに惹かれていたから。たとえば、アンヴローズ・アキンムシーレアーロン・パークス。彼らの音楽を楽しんでいた。彼らの音楽は、研究したというわけではない。私はどちらかというとジャズの伝統的な部分を学んできた。現代的な音楽はよく聴いたものって感じ。

Cape Townにはよく交換留学で生徒がヨーロッパから来ていたから、ノルウェーやスウェーデンのミュージシャンとも交流があった。だから、彼らの音楽にも触れていたりもする。あとは、GramestownでYouth Festivalがある。このフェスティヴァルは、ノルウェーとかスウェーデンの若者が交換留学でやってきて出演するもの。だから、(国や地域による)ジャズのサウンドの違いを聴くことができる。私がまだ子供の頃からそういった動きがあって、そういうさまざまな音楽が私の中に蓄積されていき、影響の元になっていたと思う。

◉研究したヴォーカリスト、歌における影響源

――では、特に研究したヴォーカリストはいますか?

ヴォーカリストは特に研究とかしてない。ヴォーカルに関してはずっとピアノを弾きながら歌ってはいたけど、ジャズヴォーカリストは特に勉強はしていない。でも、R&Bの影響が私の歌には表れていると思う。

大学へ行って、管楽器のように自分の声を使っているヴォーカリストや、アレンジの一部として楽器のように声を駆使しているヴォーカリストに出会って、興味をそそられた。トロンボーン奏者でもありシンガーでもあるSiya Makhuziniはそういうことをやっていた。Siyaの声の質感は美しくて、もろにホーン(管楽器)っぽくて、アレンジもそういう感じになっていた。グレッチェン・パラートもそういった意味で素晴らしいと思った。

 これらの音楽を聴いてきたけど、全ての音楽を大学で研究して学習してきたというわけではないけど、私の中に吸収されて、それらを楽しんで、作曲をしているうちに自然にそれらのものを探求しているんじゃないかな。

――南アフリカはコーラスミュージックだったり、歌の音楽文化みたいなものがすごく豊かな国だと思います。そう言ったところから影響はありますか?

100%そういうところから影響を受けていると思う。私のアルバムの 『Rainbow Revisited』で、私の祖父が書いた曲(「Nomayoyo (Ingoma ka Mkhulu)」)が収録されている。私の祖父は合唱的な観点からの作曲をしていたんだけど、これは仕事というよりも、趣味的なもの。現代のアフリカの社会でも、合唱とか、その手の競技みたいなものがいっぱいあって、そういう環境で子供たちは育っている。それは私の幼少期の教育のひとつでもあった。私の家族は全員が歌える。みんなプロの歌手ではないけど、集まる時にする行事の一つとして歌っていることが多いって感じ。

外国から南アフリカにパフォーマンスに来る人たちはいつもオーディエンスの反応に驚いている。とても、ポピュラーなジャズ曲をパフォーマンスするとオーディエンスはそのジャズレコードのソロのパートも歌ったりするから。音楽をとても、ヴォーカル的な観点から捉えているんだと思う。

――その合唱ってキリスト教的なものですか?それとも南アフリカの文脈のものですか?

教会からくるものではあるんだけど、南アフリカの文化だと思う。メソディストの教会のコーラル・ミュージック文化もあるし、私はカソリックで育ったからカソリックのコーラル・ミュージック文化で育っている。でも、聖歌隊そのもの、そして、聖歌隊のコンペティションなどは特定の宗派のものではなかった。いろんな地域でコンペティションが行われてた。だから特定の宗派ではないはず。

――そういった南アフリカの教会音楽って何か名前がついていたりするのでしょうか?

ただコーラル・ミュージックって呼ばれている。他に呼び名はついていないんじゃないかな。

◉南アフリカ由来の音楽の影響:クワイト

――さっきクワイトという言葉が出てきましたが、ジャズに限らず、南アフリカには独自の音楽がたくさん存在します。南アフリカ独自の音楽とあなたの音楽の繋がりを言葉にするとどういうものになると思いますか?

大きなつながりがあると思う。今、その質問をされて思い出したんだけど、私が子供の頃から聴いてきた南アフリカの音楽に、クワイトをはじめとしたハウスミュージックやダンス・ミュージックがあった。私が歌ったり、ソングライティングをする上で影響を受けた音楽はダンス・ミュージックだったと思う。

びっくりしたのは、アメリカではダンス・ミュージックはアンダーグラウド。それが私には不思議だった。南アフリカではとてもポピュラーな音楽だから。ラジオでも聴くことができたし、モール(デパート)でも聴くことができた。ポピュラー・ミュージックなラジオ局で聴くこともできた。

多くのダンス系のミュージシャンはシンガーでもあり、DJと一緒に歌ったりしていた。たとえば、モニーク・ビンガム(monique bingham)は南アフリカにくるととても人気があるから本人も驚くくらい。南アフリカではそういう文化だから、彼はとても人気がある。だから、私もその手のジャンルで作曲された曲に影響を受けた。ラヴ・ソングも多かったし、美しいメッセージ性のあるものもあった。

――あなたの叔父Selby NtuliHarariThe Beatersといったバンドの中心人物でした。これらは今、Spotifyなどで聴くことができ、世界的に評価され始めています。こういった家族の環境はあなたにどんな影響を与えていると思いますか?

叔父は70年代の終わりに亡くなっているから、私が生まれたころにはもういなかった。だから、会ったことはないんだけど、そういう人が家族にいるというのには、いろいろな影響があったと思う。彼の話をいろいろ聴くし、彼のパフォーマンスは超越的だったらしい。スーパースターが親戚にいるというのはとても驚きでもあり、嬉しいことでもあったから。素晴らしいミュージシャンでもあったし、音楽的にも当時としては、今まで誰もやっていなかったことをやっていて、とても洞察力のあることをやっていた人だと思う。誇りに思える自分の祖先、血筋を知ることができて、大事にしていかなければならないと思った。私にはとてもインスピレーションを与えてくれたと思う。

◉『The Offering』(2014)

――では、アルバムについて一つ一つ聴いて行きたいのですが、まず2014年の『The Offering』がどんなコンセプトで作られた作品だったのか教えてください。

あのアルバムの多くの私の曲は大学へ通っていた時に書いた曲。まだ自分には十分な力が備わっていないと思っていたし、いろいろな先輩たちと共演して、自分を磨いてからじゃないといけないという気持ちがあった。自分には十分なものがまだ備わっていなかったけど、このアルバムを作りたいという気持ちだけは強かった。

『The Offering』は今の私、これが私の姿である、ということを表していた。このアルバムがパフォーマンスキャリアの一つのきっかけになってくれればいいと思っていた。パフォーマンスをしたいと思っていたし、フェスティヴァルにも出たいと思っていた。友達から「アルバムを作ったら、ギグに出やすい」って言われたのもあった。それも作った理由。とにかくパフォーマンスをしたかったし、世に出たかった。「これが私!」って示したかった。結果的に人々の反応に驚いた。予想外のことだったけど、とても嬉しかった。

◉『Exiled』(2018)

――2018年の『Exiled』がどんなコンセプトで作られた作品だったのか教えてください。

『Exiled』は私が「アーティストである」ことに意識的だった最初のアルバムだった。自分が向かうアーティスト像を表したもの。このアルバムは「自分が何を感じているか」「自分の周りで何が起こっているか」を最も忠実な形で表現したものだった。

――なるほど。

『Exiled』=(亡命中の)という言葉は歴史的に南アフリカではみんな身近に感じてる言葉。アパルトヘイト政権によって人々は亡命したし、現在の南アフリカの状況にも当てはまる。私は自分の作品で自分のアイデンティティと向き合うことが多いんだけど、『Exiled』での経験は、特に若い南アフリカの人たちにとっては外国との繋がりにおいてそう感じることがある。

なぜなら私たちはこの南アフリカという国に住んでいるけど、自分たちの歴史についてちゃんと対外的に説明がされていないままでいる、という意味で『Exiled』と感じることがある。1994年に事が起こった(=アパルトヘイトが廃止された)。民主主義の選挙が実施されて、とても希望が多い時代だったと思う。でも、レインボーネイションと私たちが希望、大志を持っていたことは現実されていない。まだ貧困に喘いでいる人たちはいっぱいいるし、崩壊した家もいっぱいある。私たちの遺産や、植民地化やアパルトヘイト政策が残したものはまだまだいっぱいあって、目に見えない力というものがまだ働いている。でも、それは口に出しづらかったりもする。

――まだまだ南アフリカの状況は平等でも公正でもないし、権力構造も温存されている。でも、アパルトヘイトの廃止によってまるで問題が解決されているかのように外からは思われている暗澹たる思いのようなもの、みたいな感じですか。

『Exiled』は「私たちの文化」であり「自分たちがどういう存在なのか」を表している。私たちはアメリカの音楽も聴くし、アメリカの番組もたくさん見てきているから、アメリカの文化を受け継いでいる。「南アフリカ人がどんな存在なのか」「自分たちのアイデンティティがどういうものなのか」。私にとって『Exiled』は、色々な層の中にあるもの。人間関係においても感じることだし、スピリチュアルにも感じることでもある。社会の中での不健全さの中にもある…。私たちは、先祖と同調して生きていない、と私は思うことがある。

――南アフリカ人としての葛藤みたいなものがいろんな形で表現されていると。さっき「Rainbow」「Rainbow Nation」への言及がありました。この言葉は当初はポジティブに使われていましたが、先ほどもあなたが語ったように「きれいごと」的な感じでネガティブにも使われる言葉でもあると思います。あなたは『Exiled』でも「Rainbow」という曲を書いていました。あなたが「Rainbow」という言葉をどう使っているのか聞かせてください。

それは私が取り組んできたことのひとつ。『Exiled』からここ最近のCaros Ninoとの作品『Rainbow Revisted』では(その意味に)変遷が見られると思う。

当初、Rainbowという言葉はネガティヴな関係を持った中で使っていたと思う。守られていない約束であったり、PRのキャンペーン用にユーフォリアの創造に使われていたり、「全てがこれでいいんだ」、という間違った感覚を持たせるためのものとして使われていたような気がする。

現代の社会の中で南アフリカの黒人として暮らしていれば、いまだに富や資源の分配がされていないわけで、Rainbow Nationの理想はまだ実現されていないことがよくわかると思う。平等な社会というのはまだ実現されていない。だからこの言葉は常にネガティヴな意味合いだった。

――なるほど。『Exiled』では明らかにネガティブな意味で使われていますよね。

でも人間として、アーティストとして、その問題に取り組んできて、今の私は希望を持っている。それはこの問題に対して、前向きに進む方向が見えてきたから。その複雑な問題の中にあっても、南アフリカという国は特別な国だと思えるようになった。この国は可能性をたくさん秘めているから。人種のことであったり、同じようなバックグラウンド出身じゃない人同士がコミュニティにいることを世の中に伝えていくことができるから。この国が正しい方向性で向かうことができればね。過去の間違いなどを反省しながら、これからは前に突き進んで行けるという可能性を秘めているわけだし、この国はそういう役割を担っていると思っている。政治家が約束した社会を作り出していく機会を持っているし、自分たちが住みたいと思っているコミュニティを作っていくという役割りもあるから。

だから、今は個人の責任として「Rainbow」という言葉に対しては、1994年に交わされた約束よりももっと希望を持てている。多くの人たちは政府や最初に私たちにいろいろなことを約束をしてくれた人たちに期待をしていなかった。でも、エネルギーを持っている人たちは自分たちのコミュニティーを作り上げていくために頑張ってやっているような気がするから。

◉『Rainbow Revisited』(2023)

――ということは、2023年の『Rainbow Revisited』というアルバムに関しては、ポジティヴな気持ちが入っていると。

そういうこと。とてもポジティヴなアルバムだと思う。何故かというと、ヒーリング(癒し)を表していると思うから。ヒーリングが施されるべきと思っているってこと。つまり、(南アフリカでは)今までのトラウマが浮き出しになってきているから、ヒーリングされるべきだと思っているってこと。『Rainbow Revisited』はとてもポジティヴだと思うし、アルバムの最後の曲「Lihlanzekil」は、「洗い流された」という意味の言葉。大まかな訳ではあるけど、実際、洗い流されたと思う。

私たちが癒しを施す、全てを洗い流すためには、過去を振り返って、立ち戻ること。上塗りするのではなくてね。過去の歴史ではなにもかも塗りつぶされてきたけど、歴史をちゃんと見ていくこと、今の自分たちの生活とうまく統合できるといいと思う。『Rainbow Revisited』に宿っている精神性はそういうもの。

◉『Blk Elijah & The Children of Meroë』(2022)

――では、次は2022年の『Blk Elijah & The Children of Meroë』がどんなコンセプトで作られた作品だったのか教えてください。

『Exiled』を作った後、色々な問題に深く触れ過ぎたなと感じたの。私は問題を感じている事にそれに固執し続けるのは好きではない。どちらかというと、可能性みたいなものを考えていきたいタイプだから。もし、ヒーリングの道を辿ったり、私たちの美しい歴史、祖先の歴史、失われてしまったものを取り戻していくとしたら、どんなことをしていったらいいのか?という可能性を想像してみた。

『Blk Elijah & The Children of Meroë』は、希望を投げてみたというか、こんな風になれるという可能性を表したもの。ナイジェリア系カナダ人アーティスト、モリニケが作ってくれたアルバムのジャケットのデザインも気に入っている。モリニケが描いたものは、抑圧する構造的なものがあって、そこから自由になろうとしている。アルバムでやろうとしていることがそういう形で表現されているのがとても気に入ったわ。

――なるほど。これも『Exiled』から反転したある種、希望のアルバムだと。

たとえば、アルバム最後の曲「Inkululeko」。この曲は、表面に現れていない自由を表現したもの。「これが自分の目的なんだ」という感覚を持って、自分自身を取り戻す事によって得られる内面の自由のことを歌ってる。自分の本当の目的がわかる事によって得られる内面の自由というものがある。光があるところには、希望がある。現在の時点でのパワーがどんなところにあるのかを理解する事だと思う。

歴史に関しては、振り返って何かができるわけではない。もう既に起こってしまったことだから。歴史にどう反応していくか、ということが自分たちに力を与えていくんじゃないかなと思う。起こった事に関してどういう風に動いていくかということが大事。それがアルバムの核心の部分かな?
 
そして、『Blk Elijah & The Children of Meroë』はヒーリングについて取り上げたアルバム。フィクションの部分と私自身の経験から書いているものもある。

――『Blk Elijah & The Children of Meroë』はエレクトリックで、パワフルなグルーヴが印象的です。このアルバムのコンセプトにこのサウンドが必要だったんでしょうか?

当時、私はヒーリングについて色々勉強していた。Caroline Myss(キャロライン・メイシス)の本や、“Healing Drum“という本を読んだりした。この本は「私たちアフリカ人にとって音楽がどれだけ大切なのか」を教えてくれた本。そんなことは今まで勉強したことがなかった。音楽というものは、アフリカ人にとって聴くだけのエンタテインメントではない。私たちの社会の中では、神聖な目的を果たしてくれるもの。

そうやってリズムやグルーヴこそが音楽を作曲していく上でのある大事な要素だと気がついて興味を持つようになった。アフリカン・ミュージックを作る上で大事な要素にグルーヴがあると思う。繰り返されるリズムにはある種の効果がある 。 学校での教えでは、シンプルに同じものが繰り返されるというのは、平凡であまり知的でないという教えがあるかもしれないけど、音楽の実践的な応用や、それが実際に使われていくということに関しては、シンプルなものは、音楽の中ではとてもパワフルな意味合いを持つもの。グルーヴやエレクトリックに特化したのは、私が思う「過去、現在、未来」を表現できるものだと思ったから。

あと、私がハービーハンコックからとても影響を受けてきたから。アコースチックとエレクトリックの融合にとても魅かれていた。それは、古代と未来のものを合わせたものだと思っているから。

――ヒーリングからアフリカのリズムへの関心へと向かったと。さっきヒーリングの話が出ていましたが、それってどんなヒーリングなのでしょうか?アフリカにはヒーラーのような職があったり、独自のヒーリングの文化があると思うのですが。

音楽は、ヒーリングにとってとても力強い器だと私は思っている。私の音楽はいわゆるアフリカのヒーラーとも関係あるけど、そういうヒーラーだけに特化したものではない。ヒーラーたちは音楽を使ってヒーリングを行うんだけど、ヒーリングワークでは特にドラムを使う。音楽は振動するものでしょ?そして、振動にはヒーリングの効果がある。振動、意図、そして、ヒーリングに効果を与える特定のサウンドを身体に対して使っていく。そういったところから来ているものはたしかにある。でも、その文化だけからきているものでもないかな。

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