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interview Davi Fonseca:ミナスで生まれた"脱植民地化を目指すブラジル独自の音楽"

ブラジルのミナス地方を核にした音楽コミュニティはアントニオ・ロウレイロやハファエル・マルチニらの登場により21世紀に入っても面白い場所であり続けている。

彼らの面白さはクラシック音楽を基盤にした高い水準の演奏技術や作編曲能力に加え、現代のジャズをはじめとしたグローバルなサウンドをも消化していること、そして、ブラジル由来の音楽要素を丁寧に織り込んでいること。世界的な流れとも共振しつつ、同時にブラジルでしか生まれえない側面も強く感じさせる。そのあり方はまさに彼らの先人でもあるミルトン・ナシメントをはじめとしたミナスの”街角のクラブ”の魅力に通じるものだ。

そんなミナスのコミュニティからダヴィ・フォンセカ(Davi Fonseca)という才能が現れた。

アントニオ・ロウレイロと同じミナス連邦大学を卒業し、ミナス州都ベロオリゾンチのインディーシーンでハファエル・マルチニ、アレシャンドリ・アンドレスらとも共演している彼はまさにミナスのコミュニティの後継に位置するアーティストだ。

それは2019年にリリースした1stアルバム『Piramba』にも表れていて、アレシャンドリ・アンドレスモニカ・サルマーゾハファエル・マルチニが参加していて、その音楽にも彼らからの連なるものが聴こえていた。一方で、ダヴィの音楽には彼らの音楽には無いものもある。次の世代だからこその音も鳴っていた。

新作となる2ndの『VISEIRA』ではそんなダヴィらしさが一気に花開いていた。地元のコミュニティで活躍する21名ものミュージシャンを起用し、彼らを様々な編成に配置した作品で、そこにはシャンガイ(Xangai)アルトゥール・パドゥア(Artur Pádua)イザー(Isaar)ルイーザ・ブリーナ(Luiza Brina)といった、ゲストも参加している。前作よりもはるかに個性的なサウンドは魅力的だが、幅広く、深いこともあり、なかなか捉えづらい。

ここではダヴィ・フォンセカとはどんなアーティストなのかを掘り下げることで、『VISEIRA』に迫ろうと彼との対話を試みた。

取材・執筆・編集:柳樂光隆江利川侑介 | 通訳:村上達郎

◉ダヴィ・フォンセカの音楽経歴

――まずは大学で音楽を学ぶ以前のことを教えてください。

まず家族が音楽一家ということもあり、音楽の勉強など何をするにしても応援してくれる非常にサポートティブな家族でした。私の世代では珍しいんですが、私の家族は子供が7人いて、全員音楽をやっていました。なので子供の頃から全員音楽に触れていたような家族でした。そういう影響もあって、もう5歳ごろから地元ベロ・オリゾンチ(ミナス・ジェライス州の州都)の音楽教室に入って、エイトル・ヴィラ=ロボスのような音楽、いわゆるクラシック音楽を中心に教えるような教室に通い、7歳のころからピアノを習い始めました。そこから現在に至るまでずっと、独学を含めピアノは続けています。
その学校はやはりクラシック音楽が中心だったので、ショパンラフマニノフといった西洋のクラシック音楽から、エルネスト・ナザレーシキーニャ・ゴンザーガといったクラシック寄りのショーロを勉強していました。ただどちらかというとクラシックに近いようなピアノの勉強をずっとしてきたので、正直言うと楽譜を読んで練習していたため、アレンジをすることもできなかったし、ポピュラー系の音楽の人が使うようなコード譜も読めませんでした。

そういった感じで幼少期から青年期までを過ごしてきたのですが、16、17歳ぐらいの頃からやっと作曲の方に興味が出て勉強を始めて、当時ベロ・オリゾンチに住んでいたキューバ人のピアニストでネストル・ロンディーダ(Néstor Londida)という方がいたのですが、彼に教えてもらったりとか、あとはやはりハファエル・マルチニに教えてもらうようになったことが大きかったです。私がはじめて自分の書いた曲を披露したのはハファエル・マルチニに対してでした。その時彼は「君は才能があるから、もっと作曲の勉強をしたほうがいいよ」と言ってくれたのです。彼の言葉に心を動かされて、作曲の道に進むことを決心しました。

あとはもちろんイアン・ゲスチから和声を学んだりもしたのですが、もっとも重要な側面だと思うのが、音楽と家族の絆です。父は音楽家ですし母は歌手で、私の家にはたくさんの楽器があります。ピアノ、ギター、カヴァキーニョ、トロンボーン、パンデイロ、そしてたくさんのパーカッション。二人とも音楽家を職業にしていたわけではありませんが、音楽は常に私の家の一部でした。夜は家族みんなで歌ったり演奏したり、土曜の朝に起きてお父さんと一緒にセロニアス・モンクを弾いたりとか。そこに友人やその家族も加わることもありましたし、そういう子供時代を過ごしたことがやはり大きかったように思えます。

――さきほどハファエル・マルチニの話が出ましたが、彼との関係について教えてもらえますか?

ハファエルとはいつ友達になったか覚えてないぐらい長い付き合いなのですが、出会ってすぐに友達になりました。おそらく2012年ごろだったと思います。はじめは個人レッスンを受けていて、ピアノの話題を中心に、作編曲はもちろん音楽全般についてたくさん話し合いました。ただそのうち彼は教えるのを止めて「君はもっと演奏の機会を持たなくてはならない」と言い、そこから彼は(スケジュールの問題など)なんらかの理由で自分が出ることのできない仕事を私にあてがってくれるようになりました。例えばハファが当時プレーしていたヴィニシウス・メンデスのバンド、それからアレシャンドリ・アンドレスとのライブもありました。アレシャンドリとはもともと知り合いでしたが、ハファが出られない代わりに私を推薦してくれて、そこから音楽的なパートナーのような関係を築くことができましたね。

今ではハファともよく演奏しています。私の2枚のアルバムに参加してもらったり、私も彼のグループに参加したり。彼のカルテットの一員として参加したBDMG(ベロ・オリゾンチで開催されているインストゥルメンタル・ミュージックのためのコンペティション)では優勝もしました。なのでハファとは、はじめ先生と生徒のような関係から、だんだんと対等になっていき、友情関係とともにシーンの中で一緒に活動していくような仲間にもなったのです。ハファによってプロの音楽シーンに引き込んでもらったようなものなので、すごく感謝しています。

◉デコロナイゼーション=脱植民地化

――大学ではどういったことを学んだのでしょうか。

ミナス・ジェライス連邦大学でハファエルと同じ作曲学科を選んだのですが、それは西洋のクラシック音楽、そして北米のクラシックを勉強するアカデミックな音楽を目指すコースです。

はじめは私もどっぷりとそこに漬かっていたのですが、最近はその植民地的な考えというものも意識しています。ブラジルはヨーロッパに植民地化された側であるのに欧米を目指す/欧米に憧れる傾向があります。そのことについては国内で非常に激しい議論があります。

今回のアルバム制作を通じて「自分はブラジル人でいたい」というアイデンティティをあらためて強く認識しました。強いフラストレーションがあるとかではなく、自身への考察のようなものなのですが、そういったデコロナイゼーション=脱植民地化という考えは、私の最近の作品に強く表れていると思います。

で、何を勉強したかというと、やはりクラシックの基礎的なことですね。バロック音楽やハーモニー、ボイシング。バッハシェーンベルグなどを中心に勉強しつつ、クラシックのオーケストラの書き方では主旋律がここにあるのに対して副旋律はここにあって、それにどういうテクスチャーを加えるか...など、そういう技術的なことを勉強して、まさにどっぷりと漬かったという感じでした。

その後にポピュラー音楽の勉強も大学でするようになりました。当時ハファエルもポピュラー音楽の先生だったので、彼にも教えてもらったり。ハファが指揮するビッグバンドでピアノを演奏したり、今度は逆にハファエルが私に一曲指揮をやってみろと言って、勉強したりさせてもらったり。私が指揮をするときはハファはピアニストでした。それ以外にも録音などのいわゆるミュージック・プロダクションの勉強や、即興演奏、アンサンブルのクラスなども受講しましたね。

ただやはりアカデミックなところなので、学校で譜面の書き方のルールがあったり、すごく閉鎖的というか自分の頭が少し混乱してしまって、はじめの1年ぐらいは、ずっと続けていたピアノを弾くような時間がないほどに束縛されしてしまい、勉強漬けでクリエイティブなことはあまりできませんでした。

またピアノは昔からずっと弾いていたのですが、いざアレンジをしようというときに、そういったクリエイティブなところでピアノを使うことが当時はできませんでした。なのでそういう時はギターを使っていました。というのもギターは運指やフレットのことなど十分に分かっていなかったので、私の中で楽譜と密接に結びついてしまっていたピアノよりも新しい発見があったからです。

そういういろんな過程を経ながら大学生活を進めていくうちに、おぼろげながらに「教えられたことをそのままやる義務はない」と感じ始めました。教わったことはあくまでツールとして使って自分の音楽を生かしていけばいいのではないか、そう気づき始めてからは音楽仲間と一緒にライブハウスに行って、サンバ・ヂ・ホーダ(北東部バイーアが起源と言われるサンボのルーツ)パゴーヂ(サンバのサブジャンルで少人数でのセッションをもとにしたもの)のセッション、フォホー(北東部のダンス音楽)を演奏したり、ジャズクラブでもセッションをしたり、どんどんとポピュラーの方に傾倒していきました。

そうやって演奏者としてもどんどん可能性を拓くことはとても大事な経験でした。そうした経験をしながら並行して私の人生を変えた偉大な作曲家たちを研究していたのです。バッハ、そしてリゲティ。彼は私の1stアルバムに収録されている「Saci」の作曲過程に多大な貢献をしてくれたと感じています。そしてジョン・ケージ。多くのことを学んだとても豊かな大学生活でした。

◉『VISEIRA』:脱植民地化とレチエレス・レイチ

――さきほどデコロナイゼーション=脱植民地化についておっしゃってました。その考え方と今のダヴィさんの音楽はかなり繋がりがありますよね。その際のインスピレーションになったブラジルの音楽家はいますか?

ハファエル・マルチニのグループで演奏していたときに、実はレチエレス・レイチが特別に参加してくれたことがありました。

彼はオルケストラ・フンピレズの創始者であり、非常に残念なことにパンデミックの最中に亡くなってしまいました。ハファエルのグループで一緒に演奏したときにはじめて彼の音楽に触れて、その考え方などにもとても影響を受けて、そのころからなんとなくブラジルの音楽、自分の国の音楽ということに本当に意識的になったような気がします。

よく覚えているレチエレスの言葉があります。これはブラジルでのある種の比喩表現なのですが、パーカッションやドラムなどのリズム隊のことをキッチンと言うんですね。レチエレスはそんなパーカッションをキッチンから持ち出して、リビングルームに持っていこうとよく言っていたのです。リビングというとやはりそこには花があって、みんなが集まる家の中心といえるところです。その言葉に強く感銘を受けました。

もちろん私は白人系の家系です。ここブラジルで奴隷にされた大半の人々は黒人で、想像を絶するような悲しく残酷な歴史があります。しかし彼らこそがブラジル音楽の命であり、本質であり、それはアフリカから来ているのです。

レチエレスが言っているように、すべてのブラジル音楽はやはりアフロ・ミュージックであると感じています。ルンドゥー(Lundu)シャシャード(Xazado)サンババイアォン(Baiao)マラカトゥ(Maracatu)、そしてもちろんブルースやジャズ。そういうレチエレスの提言にすごく影響を受けています。というのも先ほども言いましたが、ブラジルはヨーロッパに対して憧れる傾向があり、どちらかといえば彼らを尊敬しろという風潮が教育にもあります。そして言わずもがなアメリカの映画や音楽からの影響は甚大ですし、英語に関してはある種の共通語になっています。クラシックにおいてはヨーロッパ、ジャズやポップスに関してはアメリカの音楽を真似る。そういう傾向に対して、レチエレスの言葉を聞いてから、疑問を持つようになりました。

◉『VISEIRA』:ドラムセットを排した4曲

なので今回のアルバム『VISEIRA』ではレチエレスの考えをもとに、パーカッションをキッチンから持ち出してリビングに持ち込む、つまりパーカッションやブラジルのリズムを主役にすることを強く考えたのです。

このアルバムの4曲はドラム・セットが入っていなくて、パーカッションが主体になっています。装飾的に使われる傾向にあるパーカッションですが、私はそうはしたくなかった。ほとんどのリズムはもともとパーカッションで作られ、ドラムが登場したのはずっと後です。だからそれを肯定することはブラジルのリズムを肯定することになります。そしてそれをニューヨーク的やパリ的にすることも望まず、ここにある豊かなリズムを据えた、「ブラジルのサウンド」にすることを望みました。

「私たちの楽器」を大切にしたい、「私たちのメロディー」を大切にしたいと思っています。とは言いつつヨーロッパやアメリカの音楽も大好きだし、なんなら日本とかロシアの音楽も好きで、いろんな音楽は聴きます。けれども、やはり一人の音楽家・作曲家として自分と対話することを考えた時に、脱植民地的な姿勢こそが、私たちの中にある豊かなものを認識することにつながると思います。これはレチエレスがよく言っていたことであり、私たちが持っているものを大切にするというものです。私たちブラジルはさまざまな人種が入り乱れた国で、全員がブラジル人です。この文化的多様性は大きな力を秘めています。

――今話してくれたパーカッションを中心にして作った4曲について、ブラジルのどんなリズムにインスピレーションを得たのでしょうか。

まず前提として、ルイーザ・ブリーナがアレンジをした一曲を除き、すべての曲で私がアレンジを行いました。ただパーカッションに関しては、ジョアン・パウロ・ドゥルモン (João Paulo Drumond)ナタリア・ミトリ( Natália Mitre)ユーリ・ヴェラスコ (Yuri Vellasco)という3人のパーカッショニストを招聘してアレンジを行いました。レチエレスが言っていた「パーカッションをキッチンからリビングに」持ってくる大変さというか、そこはやはり専門のパーカッショニストの助けが必要だったからです。アルバムの中心にブラジルのリズムを据えたいけれども、自分の曲には非常に複雑なリズミカルな要求があったりもするので、それをどう組み合わせていくのか。またそういった伝統的なものをリスペクトしつつ、どう現代の需要にこたえていくのか。そのせめぎ合いが非常に難しくて、その点専門のパーカッショニスト達に助けてもらえたのは良かったと思います。

ーーなるほど。

1曲目の「Apocalipse à Brasileira」については、基本はサンバパゴーヂになるのですが、やはり複雑に構成をされていて、それが入れ替わるような形になっています。途中からサンバの中の1つのリズムでパルチード・アルトという、独特の間を持つリズムに変わったり、同じサンバの一種でペアダンスを踊るためのガフィエイラも少し裏で取り入れてみたり。あとサンバといえばみんなで一緒に歌うのが魅力なので、そういったコーラスも取り入れました。また「サンバはどこから来たんだ? リオから来たのか、それともバイーアか?」という、ある種の永遠のテーマがあるんですが、そういうこともちょっと考えさせられながらもいろんなサンバの影響を取り込みました。

2曲目「Presepeira」はブラジルの市場がある種のテーマで、音楽的には基本フォホーになるんですけど、この曲もフォホーの特徴であるクラーベを、最後少し早めに打つことによって変則的にしています。やはりペルナンブーコ出身のルイス・ゴンザーガからの影響、リスペクトの気持ちが強いです。

また(ブラジル的なものとして)パーカッションだけでなくヴィオラ・カイピーラを使用しています。ヴィオラの一種なのですが、ブラジルの田舎や、ポピュラー音楽で使われる楽器で、ミナス・ジェライスとバイーア、ペルナンブーコのアインデンティティをつなぐ楽器だと思います。田舎の文化、内陸に住む人々の文化を表現するものなので、ヴィオラ・カイピーラの音を聞くと、祖父母と昔セッションをしていた子供の頃の記憶がよみがえり、すごく懐かしい気持ちになります。私たちブラジル人にとって、ヴィオラ・カイピーラは、非常に大きな感情的な力を呼び起こすものなのです。

3曲目「Lasca」は、カエターノ・ヴェローゾ『Livro』というアルバムからすごく影響を受けました。ジャキス・モレレンバウムがアレンジをしたアルバムですが、カエターノの出身地であるバイーアのへコンカーヴォ(トドス・オス・サントス湾の周囲に位置する地域)にある「パパコト、パパコト、パパコト、パパコト…」というサンバ・ヂ・ホーダのリズムを取り入れています。またアシェ(Axe)という力強いエネルギーが特徴のダンスミュージックに結びついたパーカッションであるチンバウ(Timbau)も取り入れています。

そして最後の1曲は、アルバムの一番後ろに入れた「A Laje de Hermeto」です。エルメート・パスコアルに対してのオマージュ曲で、マラカトゥがリファレンスなのですが、その中でもマラカトウ・フラウ(Maracatu rural)といって、Ruralとつく通り、マラカトゥをさらに田舎っぽくしたようなものを参照しています。「バーバー、バーバー、バーバー…」とグラインドコアヘビメタに近いような大きさの音圧で演奏される、ペルナンブーコの内陸部で行われるマラカトゥですね。

ただ曲の後半はシランダ(Ciranda)という、これも同じくペルナンブーコの伝統的な音楽を取り入れています。それは言葉遊びをしながら和になって踊るような音楽なのですが、それらを混ぜていくことをこの曲ではしています。これが曲の終わりであり、アルバムで最後に起こることなので、最後にミュージシャンが列になって去っていくようなイメージですね。

◉『VISEIRA』:北東部のシンガー、シャンガイの起用

――本作にシャンガイ(Xangai)が参加することになった経緯を聞かせてください?

シャンガイは子供の頃からずっと好きで聴いていました。というのも両親が聴いていたので、子供の頃から印象的な音楽だったのです。特にシャンガイの『Cantoria 1』『Cantoria 2』というエロマール(Elmar)らが参加しているアルバムがすごく好きで、大人になっても聴いていました。

2曲目の「Presepeira」を制作していた時に、シャンガイ『Mutirão da Vida』というアルバムを聞いていたのですが、そのなかにジャキス・モレレンバウムがアレンジをしていて、彼のチェロから始まる曲があります。はじめはリファレンスみたいなものとして聞いていたのですが、だんだんと、もしシャンガイがこの私の曲を歌ったらどうなるんだろう?と思い始め、参加の打診をするに至ったというわけです。

打診にあたって、ジェニフェル・ソウザルイス・ガブリエル・ロペスに話を繋いでもらいました。彼らが主催している「Mostra Cantautores」というシンガー・ソングライターに焦点をあてたベロ・オリゾンチのすごく大事なイベントがあり、シャンガイも過去に出演したことがあったのです。話を繋いでもらって自分の音源を送ってみたところ、ギャラの話などもなしに、すぐにやりましょうと返事をもらうことができました。自分としてはアイドルのような人なので、すぐに返事をもらえたことが嬉しかったですね。結果的にシャンガイをベロ・オリゾンチに招いて、一緒にご飯を食べたり、この歌のモチーフになっているプレセペイラにある市場に行ったりしました。レコーディングはとても感動的で、終わったときに私はすでに涙を流していたほど、とても幸せで充実したレコーディングでした。

――シャンガイだけでなく、今、エロマールの話も出てきましたが、彼らがブラジルの中ですごく重要な音楽家であることが、日本だといまいち知られていません。彼らの魅力について教えてもらえますか?

個人的な視点で言うと、曲自体が美しいし、メロディーも歌いやすいんです。ただやはりノスタルジーというか、彼らの音楽は家族がみんな聴いていた音楽なんです。昔、両親が聴いていたって人は多いのではないでしょうか。

客観的に見ると歌詞がいいんです。さっきの『Cantoria』に関しても、ほぼ弾き語りで、テーマも愛とか恋とか、わかりやすいものです。ブラジルは大きい国なんですが、彼らの音楽はどこの地域・文化の人が聴いてもシンパシーを感じられるような歌詞になっています。農家の話や馬、カウボーイの話といった「田舎らしさ」みたいなものはブラジル各地でも感じられるもので、ある種の共通言語。私自身は都会出身で今も大都市に住んでいますが、自分の家族は田舎出身者が多いんです。だから、直接ブラジル人のハートに触れるような音楽になっているんじゃないかなと思います。

ーー北東部も含めたブラジルの様々な地域の音楽がこのアルバムには込められているってことですね。つまり、そのブラジルらしさが脱植民地主義にも繋がると。他にインスピレーションになった作品などはありますか?

友人のアレシャンドリ・アンドレス『Macaxeira Fields』というアルバムは素晴らしいミュージシャンが集まって作り上げられたアルバムです。『VISEIRA』は自分にとっての『Macaxeira Fields』だと思って、いろんな人を総動員して作りました。プロデューサー、様々なコラボレーションなど、本当に多くの人が集まってくれたアルバムです。そういう特別な意味もあって、自分の中で『VISEIRA』はベロ・オリゾンチのシーンを象徴するようなアルバムになったんじゃないかなと思っています。

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