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interview Antonio Loureiro:エレクトロニカ、アマゾン先住民、北東部のダンス音楽などの影響を反映する初期2作

2010年ごろ、アントニオ・ロウレイロという才能が発見されたときのことはよく覚えている。2010年に1stを高橋健太郎が紹介したことで彼のことが日本でも知られるようになったのだが、僕が聴き始めたのはセカンドアルバムの『So』からだった。

ブラジルのミルトン・ナシメント周辺コミュニティのサウンドに通じるもの、もしくは当時日本で話題になっていたアルゼンチンの新しい世代によるフォルクローレの作品群とも共通するものを感じただけでなく、2000年以降のアメリカのジャズを思わせる作編曲や演奏、さらにはポストロック的なプロダクションなど、多彩な要素が一体となった音楽にすぐに魅了された。アントニオ・ロウレイロの存在は日本の多くのリスナーがブラジルの若手のアーティストに関心を持つきっかけになったと言っても過言ではないだろう。

僕は2017年にカート・ローゼンウィンケルがアントニオ・ロウレイロをはじめ、ペドロ・マルチンスらブラジル人ミュージシャンと『Caipi』というアルバムを制作した際にメールインタビューをしたことがある。この時にはサラッと現代のジャズ的な側面における影響源などを聞いた程度で、ブラッド・メルドーやブライアン・ブレイド、ティグラン・ハマシアンからの影響を語ってもらったのだが、機会があればブラジル音楽の側面も含めて改めて話を聞きたいと思っていた。

Jazz The New Chapter 4

その後、来日時に顔を合わせたり、DMでやり取りする中で「取材したかったらいつでも受ける」と言ってくれていたので、『Antonio Loureiro』『So』のLP化に合わせて行った取材がこの記事だ。

取材・執筆・編集:柳樂光隆 | 取材:江利川侑介 | 通訳・編集:島田愛加

◉『Antonio Loureiro』(2010)

◎『Antonio Loureiro』のコンセプト

ーーアルバム『Antonio Loureiro』(2010)のコンセプトについて聞かせてください。

 13、14年前のことなので思い出しながら話すね(笑) アルバムには僕の作曲した作品の進歩が現れているんだ。2007年にBDMGインストゥルメンタル賞(ミナスジェライス州の作曲/編曲家向けコンクール)を受賞したので既にいくつかの曲はあった。でも、このアルバムは僕にとってはカンサォン(=歌のある曲)を作るキャリアの始まり。最後の楽曲を除くと全てに歌がある。

ーーソングライターとしてのアルバムだと。

それまでガットギターを使って作品を作っていたんだけど、この頃から作曲にピアノを積極的に使うようになった。 ピアノ、ギター、そして沢山の歌…。でも、当時の僕はまだ歌い手としての表現を確立していなかった。そのため全曲僕が歌うのではなく、沢山の歌手をゲストに呼んだ。ファビアーナ・コッツァ、セルジオ・ペレレ、デイヴィット・リンクス、マルセロ・プレット、レオノラ・ヴェイスマンらに参加してもらってる。

また、僕の人生初のアルバムであり、人生初のプロデュース作品でもある。それもあってこのアルバムは実験の場になったし、それぞれの楽曲において異なる技法を取り入れた美術作品のようになった。これは絵画で、これは彫刻で…みたいなね。だから僕の他のアルバムとは違って、特有の響きはありながらも、コンセプトとして作品全体を縛るものがないんだ。今はこのアルバムの楽曲を演奏する機会はないけど、見るのも聴くのも大好きで、僕の誇りになっている。


◎『Antonio Loureiro』の制作プロセスと作曲でのピアノの導入

ーー『Antonio Loureiro』では楽曲をどんなプロセスで作曲していたのか聞かせてください。

 このアルバムを作る2~3年の間に異なるフェーズがあった。ギターで作曲もしてるけど、ピアノを入れるようになってから、ピアノで作曲することが増えた。それは僕にとっては自然な流れだったんだ。例えば「Sentimento」「A partir」「Voo a Dois」がピアノを使って作曲した楽曲。この頃から2枚目のアルバム『Só』に近い響きが既に生まれていたんだ。この時、「自分の道はこっちだ!」と思った。ギターで作曲した曲とは根本的に違う。

「Qui Nem Quiabo」「Roda Gigante」はギターで作曲しているから、他と全く違うでしょ? このアルバムでは僕の作曲方法が移り変わっていくプロセスを感じられると思うよ。

◎『Antonio Loureiro』の参照源

ーー『Antonio Loureiro』を制作していたころ、よく聴いていたアーティストや作品はありますか?

 僕たちは常にインスピレーションを受けている。 演奏する人に言えることだけど、楽器をはじめたときに誰かの影響を受けるよね? 誰かに教わる場合もそうだけど、自分が好きな音色に近付くように努力する。そのあと、自分の音色をみつけていく。このアルバムには僕のアイデンティティがあるんだけど、同時にまだ僕のアイドルたちのアイデンティティも盛り込まれていると思う。

ーーあなたの音楽が確立される前の過渡期だと。

例えば「Qui Nem Quiabo」ギンガから強く影響を受けている。

全体的に(ミルトン・ナシメント & ロー・ボルジェスの)『Clube da Esquina』からも影響を受けている。あと当時一緒に演奏していたクリストフ・シルヴァも。

※アントニオはKristoff Silva『Em Pé No Porto』に参加している

セルジオ・ペレレが歌う「Câmara Escura」は非常にミナス・ジェライス的な音楽で、ミルトン・ナシメントのような雰囲気もある。「Voo a Dois」もミルトンの影響だよね。

ファビアーナ・コッツァが歌う「Coreira」タンボール・ヂ・クリオーラ(Tambor de Crioula=マラニョン州で行われるアフロブラジレイロによる音楽とダンス)のコレイラ(女性の踊り子)のこと。当時、僕はブラジル北東部マラニョン州のタンボール・ヂ・クリオーラに夢中で、その情熱に僕の作風を注いで曲を作り上げたんだ。

それと、僕はビョークからも強い影響を受けている。「Nova」「A Cor Do Progresso」など彼女の影響は僕の曲の細部に現われている。こうして様々なものが混ざり合って出来たアルバムなので、多くの側面を持っているんだ。

ーー確かあなたとペドロ・マルチンスビョーク「Cocoon」をカバーした動画がYoutubeに上がっていました。あなたにとってビョークとはどんな存在ですか?

ビョークは20世紀、21世紀を代表する偉大な作曲家だよ。クラシック、ポピュラー音楽にとどまらず、性差別への言及なども含めてあらゆる局面で音楽史を変えた人物。僕は彼女がすること全てにインスピレーションを受けている。僕は彼女がソロでデビューした頃からずっと追ってるんだ。彼女の1枚目のアルバムを聴いた時、僕の音楽に対する考え方は変わったんだ。

◉ロウレイロが語る『Clube da Esquina』

ーー『Clube da Esquina』はあなたにとってどんな作品ですか?

もちろん何度も聴いた。ブラジルで最も重要なアルバムにも選ばれているし、ジルベルト・ジルとカエターノが参加していないぐらいで、当時話題のミュージシャンが皆アルバムに参加しているMPB界を代表するような作品だと思う。あのアルバムで聴ける響きは、唯一無二。トロピカリアなど様々な音楽ムーブメントは再来や続編があるけど、『Clube da Esquina』に関しては違う。言ってしまえば、惑星が落ちて大きな穴ができた感じ。彼らから影響を受けた作品はあるだろうけど、あの響きは、それ以前にもそれ以降にもないよね

◉『Só』(2012)

◎『Só』のコンセプト

ーーでは、2枚目のアルバム『Só』(2012)のコンセプトについて聞かせてください。

『Só』を制作した頃には、自分の表現方法を見出していた。同時に「インストゥルメンタル作品」なのか「歌のある作品」なのかを決めつけない音楽にインスピレーションを受けていた。それがアルバム全体を通して現れていて、歌にインスピレーションを受けてはいるけど、器楽の長いソロもあって、双方が楽曲の中で混じり合っている。

制作当時、僕はマリオ・ラジーニャマリア・ジョアンギジェルモ・クレインアカ・セカ・トリオなどと交流があって、彼らからインスピレーションを受けていた。

ディエゴ・スキッシハファエル・マルチニも彼らと同じように、歌かインストか、ジャズかブラジル音楽かが明確でないような音楽を作り上げている。アルバムが店に並ぶときに、どこの棚に入れるべきか迷うようなものを僕は作りたかったんだ。

◎エレクトロニック・ミュージックの導入

ーーなるほど

 例えば1曲目「Pelas Águas」は非常に変わった楽曲。一般的なアルバムの1曲目のようにビデオクリップが用意され、ポップで聴き手を呼び込むような楽曲とは正反対で、それぞれの楽器のプログレッシブな表現と共にブラジル先住民と水について描かれた長い物語なんだ。

 器楽的な視点で言えば、エレクトロニック・ミュージックを織り交ぜながらドラム、ヴィブラフォン、そしてピアノを多用することもこの作品の重要なコンセプトだったね。

ーーエレクトロニックなサウンドっていうのは例えば、どういうものからの影響があったんですか?

 僕の父はエレクトロ・アコースティック・ミュージックを作っていたんだ。だから、僕にとってエレクトロニック・ミュージックは非常に自然なもので、人生の一部みたいなものでもある。思春期のころ、トランスを作っていたくらい。

その後、ビョークに出会ってから、彼女と作品を作っていたマトモス(※1)やアルヴァ・ノトなども聴くようになった。他にはクリストフ・シルヴァと共作をしていたペドロ・ドゥランイス(Pedro Durães)からもインスピレーションを受けた。それらは1枚目、2枚目のアルバムに自然に取り入れられていると思うよ。例えば、アルバムのタイトルにもなった「Só」エグベルト・ジスモンチのような雰囲気もありながら、サンプラーを使った効果音なども入っているから。

※1:ビョーク『Vespertine』『Medúlla』に参加していた電子音楽デュオ
※ペドロ・ドゥラインスはRafael Dutra『Agora』に参加している

◎『Só』の制作プロセスと多重録音

ーー『Só』では楽曲をどんなプロセスで作曲していたのか聞かせてください。

 僕の曲の中でよく知られている「Luz da Terra」は、僕が2010年末にサンパウロに引っ越したときに作った曲。1枚目のアルバムをリリースする直前なので、作曲の際にギターを手放し始めた頃だ。この曲以外は全てピアノを使って作曲したんだ。『Só』は2012年末から2013年に完成したから、制作期間は約2年。その頃、サンパウロでヴィブラフォン奏者としてソリストを務めることもあったから、ヴィブラフォンも重要な役割を果たしている。ヴィブラフォン奏者としてのアルバムを作ろうと思ったことは一度もないけどね(笑

 僕は自分が複数の楽器を演奏し録音できる機会を活かし、自分の作品やプロデュース作品で多重録音をすることがある。それによって自分が描いたものや、コンセプトを守ることができるから。僕が誰かにレコーディングを依頼する時は、自由に演奏してもらうんだ。例えば「Cabe na Minha Ciranda」にはチアゴ・フランサのクレイジーなソロが欲しいと思い、彼の音を知った上で依頼している。

 僕は出来る限り自分で多重録音をしようと思っているんだけど、クリックを使わず録音しなければならない時はめちゃくちゃ大変。「Pelas Águas」がそうだった。曲中でテンポが変わるから、複数人で多重録音するよりも自分で録音する方が良いとは思うけど、実際にやってみるとすごく難しい。だから、かなり編集も必要だった。つまり、『Só』の制作は、編集の勉強にもなったってこと。

そんな感じで多重録音や編集をより深く覚えることによって、音楽プロデューサーとしての自覚をもつきっかけにもなった。1枚目も自身でプロデュースしたけど、自分が欲しい音を表現するために使用すべき機材や楽器を理解できていたこともあって、2枚目の方が全体のサウンドを考えることができていたと思うよ。

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