内向性と外向性
人と人の距離をとらなきゃいけない時代が、突然やってきた。
テレワークやオンライン授業に切り替わり物理的に人が集まらなくなった今、「こっちのほうが居心地いいな」と思った人たちが少なからずいただろう。少しでも多く、できるだけ高く、精いっぱい遠くまでを目指し、ひたすら成長を求めてきた現代社会は「外向性」の強い人たちが作ってきたものなのだ。
「外向性」と「内向性」。
このふたつは、周りの環境に対する警戒感や反応の違いによる。
外向的な人の興味は外の世界に注がれる。多くの刺激を求め、社交的な場で能力を発揮する。新しい人と出会い雑談をしながら、新しい世界を知ることに喜びを得る。人間同士の相互作用を楽しみ、他の人たちといることで活動性が上がる。人と過ごす時間を楽しみ、一人で過ごすことは退屈だと感じる。
一方、内向的な人の興味は自分の内側に注がれる。一人の静かで目立たない環境で能力を発揮する。一つの作業に没頭し、じっくり時間をかけ、深く考え追求していくことに喜びを得る。多くの人と過ごすことは苦手で、人数は少なくとも価値ある人間関係を求める。特定の人と深く話すことを好み、人と話す時にはより分析的になる。
ちなみに、「内向的」は「内気(シャイ)」とは異なる。「内気」は周りの評価を気にする結果なってしまう状態。人間関係や社会的状況がその人にとって望ましい状態ではない時、自分の行動や発語を社会的に判断されることを怖れて大人しくなることを「内気」と言う。
内向的・外向的性質は遺伝的要素と環境が組み合わさることによるものと言われている。私たちはみな、「極端な内向的~極端な外向的」の間のどこかに当てはまる。内向的に少し寄っている人、ちょうど中間の人、かなり外向的に寄っている人など。一人の中に内向的・外向的性質が同居している。
内向的な人は全人口の1/3~1/2いるとされ、私たちが周りを見渡した時、その半数弱の人は内向的な人ということになる。ごく一部の芸術家や科学者だけのものではない。
外向的な人の活動や結果は目に見えやすい。グループをまとめてリーダー的な存在になる、大胆さや自信を持った行動をする、新しい世界に恐れず飛び込んでいく、会話のレスポンスが良く、たくさんの人と友達になることができる。
そうして外向的な人が社会のリーダーとなり、ロールモデルとなり、「外向的な人」が目指すべき社会で求められる姿だと、知らず知らずに刷り込まれていく。「内向性」という性質を知ることなく、皆が「外向性」が良いものだと思い込んでいく。
一方、内向的な人の活動や結果は目に見えにくい。内的な興味は他人と共有するのがむつかしく、例えば本を読んだとしてもそれを他人とは共有しない。内的な衝動から本を読むので、果たして自分の不思議を人が面白いと思ってくれるのか分からない。本だって読む冊数が多ければよいというものではなく、もしかしたら一冊の本の一行について一年間考え続けるかもしれない。だけど、その一年一冊一行の価値は、外向的な人の活動量に比べると何もしてないと言われるほどに評価が難しい。多くの学校で課外活動の実績が内申点としてあげられるのも、目に見えるから。「部活動で部長を務め、このような大会でこのような成績をおさめました」とは書けるが、「自己とは何かということを3年間毎日考え続けました」とは書けない。
今の社会は外向的な人にフィットするように作られ、外向的な人が求める刺激に満ちている。成果は数字で表され、学校ではグループワークを要求され、オフィスはオープンスペースになり、絶えず雑音や人の視線にさらされている。内向的な人はじっくりと多面的に物事を考えることから注意深くなる傾向があるが、外向的な人を良しとしている社会ではリーダーシップが必要な役割から外されることも多い。結果的に、「決断力」「積極性」「カリスマ性」など、一般的なリーダーに典型的なキーワードは外向的なものに寄っていく。
しかし、内向的なリーダーのほうが良い結果を生むという研究結果もある。内向的なリーダーは他のメンバーが活動できる場所を作り、出てきた課題や解決策を検討する道筋を与える。外向的なリーダーは、自分で仕切ることに夢中になり、他人のアイデアに気付かないことがある。
私自身、もう今となっては、自分がかなり内向的に寄っていることに気付いている。外向的要素がほぼない。にもかかわらず、ある時期まで外向的であろうとしていた。自分には価値があることを示すために、無意識に反射的に外向的な振る舞いや選択をしていたと、今、振り返って思う。自分の性質と合わない選択がいくつもいくつも積み重ねていた。
ところで、内向的な人もステージに上がり人前で演奏し話すことはできる。ステージ上には雑音がなく、私が今何をすべきかはっきりしているからだ。「人前に出る」という点で内向的と相反すると思われることが多いが、内向的な人にとってはステージに上がる方が大勢の人と雑談をするよりもずっと簡単だ。
苦手なのは不特定多数の人が目的なく集まる場所だ。そういう場所から新しいことが生まれることは重々承知。内向的な人もパーティーに参加することはできるし、初対面の人ばかりの場所に参加して世間話や雑談をすることもできる。その場での振る舞いは、むしろ外向的に見えることもある。しかし、楽しいと思いながらも、ふと外に一息つきに出たり、壁に向かってボケっとしたり、家に帰ってから精神的にぐったりと疲れることもある。これらの反動を自分自身で把握できると反動も込みで見込みが立つので、パーティーに参加することができる。
それを知らない時には、居心地の悪さを感じる自分がおかしいのかと思っていた。ぐるぐると反省しながら体調を崩していた。参加する楽しさももちろんあるが、引き換えになるものもあるのだ。
知っておいて欲しいのは、内向的な人をパーティーに誘い断られたとしても、あなたが嫌いだからではない。パーティーが面白くないと思っているからでもない。壁にもたれかかって一人で居たり、隅の椅子に座ってポツンとしているからと言って、パーティーがつまらないわけではない。四方を人に囲まれ続けると居心地が悪くなることもある。そのことを知っておいてもらえると、とても助かる。
ここで言いたいことは、どちらの性質の人も社会にいるんだよということ。今の社会が外向的に寄りすぎていて、内向的な自分の性質を否定的に感じている人がいるなら、それは誤りだ。社会がどちらの人もバランスさせることができれば、それぞれの場所で能力を発揮することができるはずだ。外向的な人ばかりでも内向的な人ばかりでも、人類は滅びてしまう。「行動する人」と「考える人」、どちらも大切なのだ。
外からの刺激に対して、内向的な人の方が敏感に反応する。音や光の刺激に強い人に合わせて、どんどんテレビも街もにぎやかになっている。テレビの音がガチャガチャしすぎて内容が頭に入ってこないとか、画面の色使いが賑やかすぎて目が痛いとか、お店のBGMがうるさいとか、街の街頭広告で頭が混乱するとか。この辺りは感覚過敏ともつながるが、内向的な人には刺激が強すぎて、刺激もある一線を超えると何も受け取ることができなくなる。それらで脳みそがいっぱいいっぱいになってしまえば、他のことに余裕がなくなり、結果的に外向的な人に比べてパフォーマンスが落ちてしまう。例えば、私の場合、何種類もの入力が同時にあると混乱するので、多くて2種類だけのシンプルな入力だと助かる。文字だけのスライドを使っての講義、座っている人が演じる落語、画面の切り替わりが急でない動画、適度な空間がある音楽、本など。音量や光量が多すぎると脳みそがフリーズする。
学校や職場で一人になりたい気持ちを感じ、答えを出すまでに人より時間がかかるなら、もしかしたらあなたは内向的な人なのかもしれない。今の社会はあなたに合ったやり方を認めてくれず教えてくれず、そもそもあなたが居心地よいと思える場所は家の外には少ないだろう。内向的な人の周辺にいる人も、知らず知らずのうちに外向的な振る舞いや選択があるべき姿と思い込み、「なぜあの人は一人で居たがるのだろう?」「何が気に入らないのだろうか?」「普通にできないのはなぜだろうか?」と思っているかもしれない。特に、外向的な親と内向的な子供、外向的な教師と内向的な生徒の組み合わせは、互いに理解が難しいかもしれない。
一人で過ごす時間は、内向的な人だけでなく外向的な人にとっても大切だ。深く考える時間を持つことで、人を動かすのは大きな声だけではないと気付くだろう。実は心の中に潜んでいた感情を知るかもしれない。
内向性と外向性、どちらの性質がより価値があるかということではなく、どちらの人も互いの存在を知り、互いから学び、互いが充分に楽しめる社会になってほしい。
そして、下に紹介する動画の最後にスピーカーのスーザン・ケイン氏が話すように、内向的な人はあなたの喜びや楽しみをもっと私たちに見せてほしい。誰かの役に立つ、社会に影響がある、生産性なの価値観と関係なくても、あなたの内的衝動から生まれた大切なものを見せてほしい。
詳しくは、作家スーザン・ケイン氏のTEDトーク「内向的な人の力」をどうぞ。
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