私の「つつましやかな暮らし」
勢いに任せて9500字も書いてしまったが、その間にも有給休暇についてのニュースが流れてくる。
有休はお前のもんじゃない。
冒頭から言い訳だが、私のメンタルはもやし以下だということをご承知いただきたい。
悪意ある発言や態度に遭遇したら身体中が停止し眠くなるし、目の前でそれが起きたら比喩でなく本当に寝込む。
入力が自分で制御できない、一方的に映像や音が流れてくるテレビ、特にニュースは大の苦手で、出来る限り避けている。
そんな私が世間で起きていることを冷静に知ることができるのは、唯一文字を通してのみ。
下に長々と書いたようなことを口頭で述べることは、耐えられないと思う。
だけど、文字ならば書ける。
と思い、書き出したら止まらなくなった文章です。
メンタルもやしなので、異論反論は各自のタイムラインでお願いします。
今回の新型コロナウィルスでの良い面を挙げるとしたら、公衆衛生の実地研修を大規模にできたことかもしれない。
健康な人が感染したならば遠くの弱い人が重症になったり死亡したりするのだ。
これを教訓にして、インフルエンザや麻疹、子宮頸がんのワクチンまで意識が広がってくれることを願う。
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「社会が困難であるとき、私たちにできることは毎日をつつましやかに暮らすこと」
今回の新型コロナウィルスの様々な動向が見られる最中、このような意味合いの言葉を目にすることがある。
東日本大震災の時にも目にした。
私も9年前の東日本大震災の時は、この言葉に「自分にもできることがあるんだ」と安心し、励ましてもらった気持ちになったことがある。
しかし、そうは言いながら、なんとなく腑に落ちないでいた。
そして、9年経って今思うことは、つつましやかに生活しているだけでは何も変わらない。
この言葉は戦時中にもプロパガンダに利用されていたではないか。
何もしない自分を美しく正当化するには十分な甘い言葉ではないか。
社会運動のような過激なことはできない、かと言って何をすればいいのか分からない。
そんな時にこの言葉を聞くと、「個人が小さな幸せを積み重ねていくこと」は確かに悪いことではないし、むしろ良いことだし、なおかつ『小さな抵抗』に参加できた気持ちにもなる。
先日この違和感を説明している文章に出会い、気づいた。
私だけでなく、違和感に気づいている人もいるはずだ。
小さな幸せをコツコツと積み重ねる作業は賽の河原と同じで、今回のような未知の恐怖に襲われると、いとも簡単に壊れるのだ。
『小さな抵抗』は積み重ねたものを守るには弱すぎるのだ。
コツコツと積み重ねてきたものを、ある日突然空から現れた、人の話を聞かない言葉の通じない傍若無人なおじいさん達の手であっという間に壊される。
私たちは何度も何度も壊されているのだ。
まさに賽の河原だ。
ならば、右手でコツコツと幸せの石を積み重ねながら、同時に左手で言葉を書き、口を開いて自分たちの困難を伝えていくことはできないか。
口をつむぎ、両手で石を積み重ねている国民は、傍若無人なおじいさんの思う壺なんじゃないか。
地震や津波や土砂災害やウイルスも、もちろん積み上げた石を壊す。
が、傍若無人なおじいさんたちは、私たちの石を守ってくれるどころか、自分の石を少しでも高く積み上げたいと、私たちの石を奪ってるんじゃないか。
政治的な、思想的な何かを話すことははしたないことだと、ずっと思っていた。
私にはそういう主張はないんだと思っていた。
それに正直に言うと、30代までの私は政治に全く興味がなく、考えたことはなかった。
難病を自分が発症するまでは、人生が良くなるか悪くなるかは自分の努力次第だと信じていたし、努力できない人には彼ら側に問題があると思っていた。
今考えると、どれだけ恵まれた世間知らずだったのか。
政治はめんどくさいことで、それはだれか大人がやってくれるだろう。
そうやって考えることを放棄していた。
でも、こうやって40代半ばになり、自分が大人の側になりやっと気づいた。
私が若いころにめんどうくさいと思っていた問題は解決していないまま。
そうして社会を見回すと、なんと不公正なことか。
昨日今日気づいたような若輩者が、世間を知らない若輩者が言うことじゃないと言われた
って、最初に書いた言葉に従って黙っていることなんて、もうできない。
今、日本の社会で起きているパニックには、とても既視感がある。
発症から診断までの期間を過ごしたことのある難病患者なら分かるのではないだろうか。
よく分からない症状が出て、何の病気か分からないまま時間だけが過ぎ、有効な治療法もない。
それまで風邪は寝てれば治るし、そうでなくても病院に行けば病名がついて薬がもらえて治癒すると思っていた。
それが、何の病気でどうして発症したのか分からず、確定診断が出ても治療法は対症療法だけで根本治療はない。
せめてもと、生活を整えることに注力するが、時にはどうやっても症状は再発し増悪する。
しかもその原因が分からない。
いろいろと因果関係を考えて試してみたりもするが、万全の対策をしても、やはり増悪する。
病気により、仕事や学校に行けなくなる。
収入が途絶え、社会から取り残され、先が見えなくなる。
これらのコントロールのできなさに腹を立て、自分が不甲斐なくなり、不安が怒りに代わってくる。
身に覚えがある人もいると思う。
このような個人で起きていたミクロのプロセスが、今、社会全体で起こっているように見える。
患者個人のプロセスで言えば、この不安や怒りを克服する大きな原動力に、「正しく理解する」ことがある。
病気を正しく理解し、薬を正しく理解し、体の仕組みを正しく理解すること。
そして、周りの人が同様に正しく理解してくれること。
水谷お茶やキノコやサプリで病気は治らない。
信頼に足る専門家の言葉を聞き、それを理解する努力を怠らない。
頼れる医療機関や相談先をいくつか確保しておく。
そうやって貯めた知識と経験が、不安や怒りから自分を守り、怪しい情報を見極めることにつながる。
そうすると不安や怒りから解放され、やっと身体は薬や治療を受け入れ、快方へと向かう。
しかし、今起きていることに目を向けてみると、不安と怒りがコントロール不可能になっている。
デマが広がり、専門家とは言えない人たちがワイドショーに登場し、不安と怒りのみを共有している。
自分の不安を解消するためにマスクやティッシュペーパーの買い占めに走り、ずるがしこい人はそれで金儲けをする。
これだけ複雑化した社会で、すべてを説明できるような原因がひとつだけあげられたなら、むしろそちらの方が怪しいと疑ってしかるべきだ。
そうして、パニックのなかでは弱者はさらに弱って取り残されていく。
経済的に困っている人は買い占めることもできず、不当に高くなったものなんてもちろん買えない。
車椅子で生活している人がトイレットペーパーをいくつも買って持って帰れるはずもなく、外出も命がけな免疫低下状態の人がマスクを買うために頻繁に外に出られるわけもない。
健康で十分な免疫を持っている大多数の人がパニックを起こすと、それが本当に必要な人のところに届かないのだ。
イベントやコンサートが次々と中止に追い込まれ、誰が決めたかわからないけど、イベントやコンサートは不要不急のものとされている。
そうして収入が絶たれた後には、弱者はさらに弱者に、弱者ではなかった人も弱者になってしまう。
しかし、パニックを起こす人たちは仕方がない。
正しい情報を与えられず、正しい情報の見極め方も知らず、そんな時間も与えられない。
政府から出てくることといえば、お粗末な言葉の応酬と思いつきの措置だけ。
政治家はまず辞書を買ったらどうだろうか。
今どき数千円出せば何十万語も収録された辞書がスマホに入るよ。
オンラインで使える無料の辞書もあるよ。
不安や恐怖は様々なことを正当化する。
「これでもましな方だ」「もっとひどくなっていたかもしれない」。
みな、自分が今持っているものを手放したくなくて、必死なのだ。
一方、政権の中枢にいるおじいさんたちは、もう逃げ切り体制に入っている。
今持っているものをひとつも次世代に渡さないまま。
外面だけよくて、身内にはとことん厳しい。
家父長制の悪い面を国家レベルに広げたら、さもありなん。
家の外ではアメリカや中国に見栄を張り、家の中では女性をあごで使い介護や子育ての全てを丸投げ。
休校になった子供の世話は奥さんがするものだろうと、それ以外の想定がなく、現代のリアルな生活が見えていない。
お茶も入れずトイレットペーパーの補充もしたことがない人が国を運営しているなら、さもありなん。
リアルな生活が見えてないといえば、女性の待遇をよくすると言いながら女性大臣を登用したとこで、彼女たちはどこまで行っても名誉男性だ。
女性の代表ではない。
家父長に「お前はこちら側の人間として認めてやる」と言われた、ホモソーシャルに生きている人たちなのだ。
しかし、どうして一方的にあちら側から「お前は認めてやる」「お前は認めん」と言われなければならないのだろう。
国家の主たる事業である福祉事業でさえ、基本的人権の生存権に「健康で文化的な生活を営むことを内容とする権利」と定められているにもかかわらず、「お前は福祉を受けるに足る」「お前は足らん」と一方的に沙汰される。
家父長が考える援助するに足るような、福祉を受ける理由が自己責任ではない、十分にかわいそうな、援助している自分の株が上がるような、そんな人かどうかを、なぜ一方的に決められなければならいのか。
いつのころから、子供の口からも聞かれるようになった「自己責任」という言葉。
ここまで複雑化した社会の中で、何が自己責任で何が自己責任でないのか、誰に分かろうか。
勉強ができず進学できなかった人に、努力が足りないだけだと言うことができるのか。
糖尿病になった人に、贅沢病だと、遺伝的な側面を無視して言うことができるのか。
そこに貧困や学習障害や労働や医療や環境問題がひとつもないと言えるのか。
個人の問題は社会の問題なんじゃないのか。
「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」というフェミニズムのスローガンもある。
という議論も常にしてきたが、この話も冒頭の「ささやかな暮らし」同様に、私の中ではずっと腑に落ちない部分があった。
自己責任への反論が「自己責任じゃない部分もあるんじゃないか」と指摘するだけでは不十分で、その反論自体が自己責任を認めてることになるのではないか、と思っていた。
むしろ、自己責任かどうかは関係なく困っている人を助ける、それが福祉なんじゃないのか。
そのために、社会や国家があるんじゃないのか。
義務を果たしているかどうか、ましてや生産性なんてものは全く関係なく、すべての人は生まれながらに自由と平等で幸福を追求する権利、天賦人権を持っているのだ。
もちろん国の財政が限りあるもので、皆が十分福祉を受けるには足りないことは理解している。
そのためにどこかに線を引き、助けられる人と助けられない人が出てくることはやむを得ない。
皆が豊かに生活することは理想であることは重々承知しながら、しかし、それを現実的じゃないからと簡単に手放すことはできない。
いつでも、理想に向かって試行錯誤している道途中なのだ。
理想を手放し思考停止し、道草食ってる間にも、誰かが現実に困っているのだ。
このような話をするとある人はアレルギーを起こし、まったく耳を塞いでしまう。
その人たちの中には、福祉の助けが必要な状況になったことがない人が多い。
充分な教育を受け、家も裕福で、社会的に成功した人がいたとして、困っている人を助けることでその人の苦労や成功がなくなることはない。
あなたの成功はあなたの成功であり、他の生き方をしている人を認めることで減るものではないので、胸を張って生きてほしい。
福祉の重要性を説くとき、「あなたもある日突然病気になって支援が必要になることがある」と言うことがある。
これも、「ささやかな暮らし」や「自己責任」同様の理由で、「もしもあなたが支援が必要になった時のために福祉を整える」のではなく、「今支援が必要な人がいるから福祉がある」のだと答えたい。
自分の立場を一歩も動かず「かわいそうね」と遠くから同情するシンパシー(同情)とは違い、相手の立場にまで視点を移動して見るエンパシー(共感)の違いだ。
どうしても断絶される自分と他人の違い、「自分の特殊性」を、私は小学生の頃から取り憑かれたように考えている。
それについては年末にひらめきがあったので、今少しずつ書いている。
それはさておき。
社会や国家は、個人では解決できない問題を解決する役割を負っている。
福祉はもちろん、外交や教育などなど。
社会や国家と個人の関係が、社会のために個人があると逆転したならば、分かりやすい例だと戦時中の国と個人の在り方のようになる。
お国のためになら貧しい暮らしも死をも怖くなくなる。
今は戦時中ではないが、しかし、もしかしたら、今も形を変えて目に見えない形で、その逆転現象が少しずつ強まっているのかもしれない。
本来情報を伝達するための言葉が形式化しねじ曲げられ、形式を踏まえることに重きが置かれ、そのために出てくる弊害は「社会のために必要なことです」と我慢を強いられる。
正論を述べると、「正論では物事は進まない」と握りつぶされる。
正論を述べる人は「正論では物事は進まない」という人に返す非論理的な言葉がなく、いたたまれなく、その場から退場していく。
なぜ、右手に正論、左手に状況判断、両方を持ったまま進められないのか。
誰かいつ正論と状況判断の二者択一を迫ったのか。
この辺りは、2月にEテレで放送された「100分 de 名著」のヴァーツラフ・ハヴェルが演説や演劇や著書で述べているので、興味のある方はどうぞ。
国家で言えば、「皆が決めた正しいこと」の代表が国会であり、「論理的に正しいこと」の代表が行政で、その二つを監視するのが司法だろう。
中学の公民の授業で三権分立を習ったはずだ。
三権を拮抗していることで、大きな権力が集中することなく、権力の乱用を防ぐ。
政治家が大きな力を勝ち取りたいと思うなら、この三権分立のルールの中で勝ち取るべきだ。
サッカーをしているのに、勝手にゴールをあちこちに設置し、「俺だけはどこに入れたって得点になるからね、お前のゴールはこれ一個ね」と、独自ルールで試合を始めている状況だ。
それでも分が悪くなると、相手チームの選手を「お前は今から俺のチームな」と一方的にメンバーを増員していく。
もしも本当にサッカーの試合ならば、そんなピッチからは退場すればいい。
だけど、それを国だった場合、どうして退場できようか。
この議論に、「日本が嫌なら出て行け」という言葉には取り合わない。
日本に住む権利のある人は誰であれ、追い出すことは誰にもできない。
三権分立をぶち壊し、基本的人権を奪おうとされていることが、今徐々に明らかになってきている。
にもかかわらず、国民はつつましやかな暮らしで難局を乗り切ろうとする。
皆余裕がなくなり、自分よりも多く持っている人を妬み、自分よりも少なく持っている人を見てほっと胸を撫で下ろす。
それに何の意味があるのか。
もしも自分が今持っているもので足りないならば、状況を知ってもらうために「足りません!」と声を出したい。
声を出すためには、まず声を出せる環境を作らなければならない。
足りないことを自己責任と責めたて、社会的肉体的な死に追い詰めるような風潮では、声は上げられない。
誰もがまず自分の身を守ることに必死だから。
しかし、孤独は人を殺すのだ。
実際に、残念ながら孤独に殺されてしまった人の死を、微力ながら自分の力が及ぶ範囲で経験したことがある。
頼るところのない人は、たとえそれが死に至る病気でなくても、孤立や不安、孤独に殺されるのだ。
もう二度とそんな経験はごめんだとばかりに私個人が奮起したところで、助けられる人数は限られている。
もちろん身の回りで困っている人がいたならば出来る限り手を差し出すし、周りの人にはしつこいくらいに「いつでも助けるぞ」ビームを発している。
それは、これまで私がいろんな人に助けられてきたお礼、ペイフォワードだ。
この話は枝分かれしていきそうなので、ここでやめるけども。
誰もが困ることになった時点で頼れるセーフティーネットを構築するために国家が機能してしかるべきだ。
身寄りがなく仕事もない人も、人はどんな状態でも生存権があるのだ。
そのセーフティーネットを家族や善意に押し付けようという風潮がいつまでたっても消えない。
それはやはり家父長制度でうまく生き延びた人の論法だ。
家族がいなくても、頼るところがなくても、皆が十分に生きていける社会を目指すべきだ。
そういう意味で、未来が現実味のない、人生逃げ切り体制に入っているおじいさんの政治家たちには早く引退してもらいたい。
今まさに自力で生活している30代40代が舵を取るために、主導権を譲ってほしい。
20年30年後は、今の30代40代にとって自分事として想像ができ、自分たちの子供たちが自分たちの年齢になっている現実だ。
今が良ければそれでいいなんて日和見なことは、決してできないはずだ。
もしも間違ったならば、それを教訓に改めればよい。
間違ったことをうやむやにして、「間違ったと勘違いさせたならごめんなさい」と何に謝罪しているんだか分からないことが起きないように、間違ったこと自体を過度に非難してはならない。
困ったら助けるからねと、席を譲った人たちは見守っていれば、それでいいのだ。
人格と行動を同一視しないよう、気をつけていればそれでいいのだ。
果たして、今すぐ30代40代で、そういう人材が集まるか。
もし集まらないとすれば、それはその上の年代の失策の結果に他ならない。
30代40代が無能なせいではない。
優秀な人材を集めるためには、まだ何物でもない子供たちに選んでもらえるような、魅力が必要だ。
その魅力のアピールがなく人材が集まらず、疲弊していく職場のほとんどが、上の世代が長々と居座っているからではないか。
特に40代の私たちは、高校大学卒業時に就職氷河期で仕事がなく、今でも非正規雇用で食いつないでいる人が多い。
仕事もさせてもらえず、社会的負担はおしつけられ、何の舵取りも任せてもらえないまま死ぬのだろうか。
本当にロストジェネレーションだ。
今いろいろな舵取りをしている人たちから見た若者は、何もわからず何も知らない頼りなさでいっぱいかもしれない。
だけど、あなたたちがいなくなった未来も私たちは生きていくのだ。
『What a wonderful world』の歌詞にもある。
I hear babies cry, (赤ちゃんたちが泣いている)
I watch them grow, (彼らの成長を私は見守ろう)
They’ll learn much more, (彼らはより多くのことを学んでいくだろう)
Than I’ll ever know (私が知ることよりも多くのことを)
この歌詞を読んで何も感じないような人、「そうは言っても」と御託を並べる人、なんなら将来世話してもらうために赤ちゃんを育てる人、そういう人には一切任せられない。
そのためにも、口をつぐんで石を積み上げ続けることはもう止めにする。
声を上げ困ったと言い続けることで助かる人がいるなら、声を上げる。
一見過激と見えた1970年代の障害者運動だって、ごく当たり前の人権の獲得を目的としたものであり、それらの活動のおかげで障害が個人問題から社会問題へと転換していった。
選びようのない属性に、根拠のない差別や偏見のレッテルを貼るスティグマ。
スティグマがどうして発生するのかを理解し、自分がそこに飲み込まれないように学び続け疑問を持ち続ける。
どうやったって社会の中で一定数発生する貧困や病気や失業などの問題は、不安定な個人の善意によらない、確かな仕組みで解決していかなければならない。
スティグマは実際にある問題を安易な解決方向に流して、存在しないことにしてしまう。
一人の人にも複数の属性がある。
生物的生物・ジェンダー・年齢・職業・家族構成などなど。
それぞれで、マジョリティだったりマイノリティだったりする。
先に述べた家父長制度の強い社会で作られてきた日本では、「健康で平均的な体格で正社員の男性」が基準になっている。
健康でなければマイノリティ、平均的な体格でなければマイノリティ、男性でなければマイノリティ、非正規雇用ならマイノリティ。
それにいち早く気づき、女子にも教育の機会をと女子高・女子大が作られたのだ。
決して男性に都合の良い女性を育てるための機関ではない。
ジェンダーについては書きたいことが山ほどあるので別の機会にする。
ここで言いたいことは、マジョリティに属する人はその属性に気づかないということだ。
マイノリティになって初めてその属性に気づく。
だから、自分が何も属性を気にせずに振舞える時は充分に配慮が必要な時だ。
そしてマイノリティになったら、口を閉じないことが必要だ。
今の日本の民主主義でそれが行われているとは到底言えないが、多数決で物事を決める民主主義であっても、それはマジョリティの意見だけが優先されることと同義ではない。
多数決で選ばれた代表者は、少数派の意見であってもすべてを無視していいわけではない。
得てして「私は選挙で信任を得た」というマジックワードの元、少数派の意見をなかったことにしがちだが、そうならないためにも、マイノリティになったら声を上げなければならない。
声を上げられない人もいるだろう。
声を上げられない人たちのためにも、私は声を上げることはやめない。
ただし、無法地帯のような方法はとらない。
窓口に飛び込んでまくしたてたり、電話で相手をぶちのめしたりしない。
言葉を軽んじて煙に巻くような土俵には一切乗らない。
理想主義だと言われても、その理想は手放さない。
そのために私がしている一つが患者会活動だ。
SNSに発したMeTooやKuTooなどの活動も、マイノリティが強いられてきた理不尽を見過ごせない人たちの言葉から始まった。
患者の権利を得ようと発言したなら、「健康な人でも辛いことはある」と言われる。
女性の権利を得ようと発言したなら、「男性でも辛いことはある」と言われる。
それはそれで健康な人や男性が声を上げて解決の道を探ってほしい。
こちらが上げた声があなたの何かを奪うわけではない。
幸福の数が100と決まっていて、それを皆で奪い合ってるのではないのだから。
ただ、このようなことを書いたからといって、皆に同意してもらって一緒に立ち上がろうという意図ではない。
私自身、根っからの「みなで一致団結して」という精神から距離を置きたい人だ。
だからこそ、どんな考え方の持ち主であれ、どんな生き方をしている人であれ、どんな状態であれ、個人が尊重されて、その生き方が尊重される安心できる社会を目指したい。
内側がボロボロなのに外見だけピカピカを装いたい社会なんて、もううんざりだ。
私個人は研究者でもないし、政治家でもないし、ただの田舎に住んでいる今はちょっと体調のいい難病患者に過ぎない。
今、こうやって政治に目が向いて様々なことに思いを巡らすことができるのは、ひとえに余裕があるから。
明日食べるものに困る危機もなく、今のところ病気が悪化したとしても打つ手があることを知っているから。
一方、余裕がない時には、自分のことに必死で、政治や社会のことなんて知らないまま、天から突然現れてコツコツと積み上げた私の石をいきなり吹き飛ばす手を恐れ怖がるだけだった。
余裕のなさは視界を狭くし、ただ自分の前にある不揃いな形の石しか目に入らず、そうして崩された石をまた一から積み上げるだけだった。
今、私の眼には石以外のものが見えている。
見えた以上は口を閉じないし、人の積み上げた石を崩そうとする手には向かっていこうと思う。
それが今私の思う、「つつましやかな暮らし」だ。
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