旅を記録するということ
このnoteを始めて、自分のつけていた日記にずいぶんと助けられた。日記がなければ記事は書けなかったと思う。
旅日記をつけ始めたのは、19歳で行った最初の海外旅行。同行した兄が「お小遣い帳」と称して、小さな手帳にその日使ったお金を記録しているのを見て、なんとなく始めた。
博物館の入館料で〇ドル、食事はこんなものを食べて割り勘で〇ドル、などと書いていただけなのだが、帰国後、この手帳を見ると、いつ何をしたか、思いのほか鮮明に思い出せることがわかった。それ以降、海外旅行先では必ず小遣い帳、そしてちょっとした日記もつけるようになった。日常では日記をつけていないが、旅先ではまめに記録を残していると思う。
楽しいのが、日記の隅にちょこちょこといたずら書きのようなイラストを描くことだ。
いまでこそ、何でもかんでも写真をとる人が多いが、20年ほど前は、レストランで食べ物の写真を撮ろうとすると不思議がられたものだ。そこで、お皿の景色を記憶しておき、後でイラストにする。
また、食べ物ならまだしも、見知らぬ人をいきなり撮影するのはさすがにはばかられるので、街で見た印象深いファッション、髪型を描いたりもした。
実は、旅先で描くイラストが上手くなりたいと、イラスト講座に1年間通ったことがある。
「手帳スケッチ」という、ドンピシャなタイトルで、先生はプロのイラストレーター。旅先でのスケッチ風な、カジュアルなタッチの作品を描く方で、雑誌で旅行記の連載も持っていた。
普段は教室で、先生の持参した小物をスケッチする。先生によると「街歩きをしていると看板のようにデザインされたものを描きたくなることが多いから」とのことで、輸入食品のパッケージをよく描いた。そのほか、ミニカーとか、松ぼっくりとか、野菜などもモデルにした。
講座では何度か「スケッチ旅行」と称して、代官山や丸の内などに出てスケッチしたこともある。
最初に先生とぶらぶらと街を散策し、「こういうものを描いたら面白いですね」などとアドバイスしてもらう。その後解散し、それぞれが好きなものを選び、スケッチブックに黒のペンで輪郭だけざっと描く。輪郭が描けた人から教室に戻り、水彩絵の具で色塗りして仕上げる。
先生も旅先では黒ペンだけで簡単に描き、帰宅してから彩色するという。飛行機で提供される機内食をどうしてもスケッチしたかった時は、まわりの人に一言断りを入れて、とにかくスピード重視で描いたそうだ。「狭いから、コップとか倒さないように緊張しました」、と笑っていた。
見たものを見たままに描かなくてよい、文字を書き加えてもよい、という自由さも気に入った。
例えば東京ミッドタウンでのスケッチ旅行では、私はサントリー美術館に入館した。ちょうど見たかった展覧会をやっていたのだ。中ではスケッチはせず、退館後、持ち帰ったチラシやチケットを参考に、印象に残った展示物を描き、そこに美術館の入り口の看板や、その後カフェで食べたものも描いた。印象に残ったものをぎゅっと濃縮した、私ならではの1枚となり、写真とはまた違った記録となった。
これはいい、と思った。教室に通った1年間でイラストが上達した訳ではないが、こんな世界があるんだな、と思えたのが嬉しかった。
自分をかたちづくる「層」のようなものの一枚が旅だと思う。
写真や、日記や、イラストや、動画。短歌でも詩でも。そんな風に大切に残した旅の記録を見返すと、自分の中に、豊かなものがちょっとずつ、ちょっとずつ蓄積されてきたのかな、と思えることがある。
でも、それは旅からずいぶんと経ってからようやくわかること。そして記録のお蔭で気づけたこと。
このnoteを始めてから、久々にアルバムや日記を見返すことが多くなった。そして自分の中に重なり合っている「層」の一枚一枚を愛おしく思う。
(text&photo;Noriko) ©elia