黄色い花の島、キティラ
今まで旅をしてきて、大変な思いをしたことはいろいろあるけれど、忘れられないのは、ギリシャのキティラという島を訪れた時のこと。当時は一人、途方に暮れていたのだが、いま振り返るとちょっと面白くて、懐かしい出来事だ。
キティラ島で野宿の危機
キティラ島は、ギリシャ南部、ペロポネソス半島の南側にある島だ。女神アフロディーテ(ヴィーナス)が生まれた地ともいわれている。調べてみると、「シテール島」の名でフランスの画家アントワーヌ=ワトーや作曲家クロード=ドビュッシーの作品の題材となっているという。行ったことがあるのに、そんな有名な地だったとは知らなかった。
ペロポネソス半島をバスで旅して、ギティオという港町から船に乗ることにした。海辺のタベルナ(食堂)で、だいぶ旅にも慣れてきたので、ビールまで頼んだ。ああ、呑気だった、この時は。
船が到着する頃はもうすっかり暗くなっていた。今まで旅したエーゲ海の島ならば、港にホテルの客引きがいるから、その中から部屋を見つければいいや、と気楽な気持ちでいた。船が着いて港に降りる。客引きの姿はない。そういえばイオニア諸島の他の島でもこんなことがあったのに、また同じことをしてしまった。
でもまあ、ギリシャの夜は長いから、なんとかなるだろうと思っていた。港にいたタクシーで、島の中心部らしい町まで向かってもらう。若い女性が運転をしていた。思っていたよりもけっこう遠い。
部屋を予約していないと話すと、運転手の女性がホテルを探してくれたが、どこも部屋が空いていない。バカンスシーズンでいっぱいなのだ。旅行者が多いエーゲ海の島と違い、この島ではホテルの数も限られているようだ。夜の10時くらいだったが、ホテルのレセプションも閉まっている。「どうして予約もせずに来るの?」と呆れられる。
しかたなく、島の中心部らしいキティラタウンで降ろしてもらう。街中の店はまだ開いていて、土産物などを売っている。親切そうな土産店の女性にホテルについて尋ねると、近くの街へ行った方がいいかも、と言われるが、ギリシャで買ったガイドブックに載っているホテルに順番に電話してみても、誰も電話に出ないか、連絡がついても満室だ。
はっきり覚えていないのだが、当時の日記を見ると、ここで私はどうにでもなれと思ったのか、バーに行っている。日記を読んで、開き直ってカンパリを飲んでいた自分にビックリした。深夜1時を過ぎ、広場のベンチで野宿を覚悟するが、8月だというのに夜は結構寒い。電話がつながったものの満室だと言われたホテルに、もう一度かけてみると、さっきとは別の男性が出て、小さな部屋が一つだけあるという。泊まれるのならなんでもいい。
案内された部屋はもしかしたら、従業員用の仮眠室か夏の間の住み込み部屋みたいなものだったのかもしれない。床にはGのつく生き物が倒れていたりするが、野宿に比べればずっとましだ。寒くないし、冷蔵庫もある。「本当によかった、最大の危機だった」と日記に書き残している。いくら安全そうな田舎の島だとはいえ、一人で野宿なんてせずに済んでよかった。
ラフカディオ・ハーンの母のふるさと
アテネからはるばるこの島までやって来たのは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の母の出身地だと知ったからだ。この年、2004年にギリシャを旅した時、新聞の地域面に旅の記事を書かせてもらった。私の地元はハーンが暮らしたことのある土地で、彼が生まれたレフカダ島を訪ねた。せっかくだから彼の母のゆかりの地にも行ってみようと思った。
明るい朝の光の中を、カストロ(城跡)へ向かった。教会の前でラジオを聞きながら仕事をしていた女性に挨拶したら、ハーンのことを教えてくれてびっくりした。日本の学者が来て本を送ってくれたのだという。美術館で働いているという女性は、ハーンの母、ローザ・カシマチの住んでいた家の場所を教えてくれた。
城跡を出たすぐ右手にあり、家の前にはローザの家だと示すプレートがついていた。向かいの家の女性が外にいたので話を聞くと、ハーンの母の家だと知っていた。ちなみに彼女の夫と父はロシア出身だという話だった。この島から遠く離れた場所に向かった人がいたかと思うと、遠い土地からこの島に来た人がいたのだと思った。
ハーンの父はアイルランド出身の軍医で、この地域がイギリスの支配下にあった時期にキティラ島に駐留し、ローザと出会い、ハーンが生まれた。ハーンと母は先にアイルランドに戻っていた父の元へ向かうが、後に両親は離婚。母のローザはキティラ島で暮らしたという。
このカラッと明るいギリシャの素朴な島から、はるばるアイルランドまで行き、暗くどんよりとした冬を過ごしたら、気が滅入っただろうなあと思う。私はギリシャの冬を経験していないし、アイルランドにも行ったことがないけれど。ギリシャの冬も寒いだろうが、それでもアイルランドとはずいぶん気候が違いそうだ。冬にアイルランドの隣のイギリスを旅した時の、どんよりとした分厚い雲と陰鬱な空を思い浮かべた。
▼ハーンが生まれたレフカダ島を訪ねたときの記事はこちら
黄色い花と黄色いリキュール
部屋へ戻ると、ホテルのオーナーらしき昨日の男性が部屋を訪ねて来たので、支払いを済ませる。帰りのフェリーのチケットを買おうと思うが、別の町でしか買えないというのでタクシーで向かう。旅行会社で聞くとアテネまでの飛行機もあるという。しかしそのチケットは私が滞在している町でしか買えないらしい。旅行会社だから、どんなチケットでも買えるというわけではないようだ。船で帰ることにして、チケットを買って戻った。
前日、一緒に宿を探してくれたタクシー運転手の女性にお礼を言おうと思って電話をかけてみると、別の男の人が出る。どうやら同じ車を交替で運転していたらしく、話すことはできなかった。
島にいるときは魚介類をよく食べるのだが、ここも島なのにタベルナのメニューは肉ばかりだったので、トラディショナル・ケーキと書いてあった弾力のあるスポンジケーキみたいなものとギリシャ風アイスコーヒーのフラッペを昼食がわりにする。
土産店には、ミモザみたいな黄色い小さな花のドライフラワーをあしらったリースや雑貨が並んでいる。この地域の花で、「Live Forever」という意味があるという。
前夜、ホテルのことなどを尋ねた女性の店に行き、黄色のリキュールが入った小瓶とお菓子を買う。ここで話ができてちょっとほっとしたのだ。買い物に勢いがついたのか、別の店でバッグとピアスも買う。日本に行ったことのある元船員だという男性に会い、「日本食やスシが好き。日本はいい国だ」と言われた。ギリシャではこんな元船員さんにいろんな所で出会った。
日記には、キティラはきれいな島で、人も親切。お店の人も感じが良いし、英語も通じるし、ホテルをとっておけば、そして海辺で魚を食べられらば、よかった。また泳ぎに来たい、と書いていた。
薄暗い部屋に戻ると、生きているGが出現。普段使われていない部屋だからだろうか。1泊25ユーロで、この部屋にしては高い気もするけど、野宿するよりマシ。大冒険だった。と書き残していた。
帰りはバスでラクラク
島を離れる日、予約していたタクシーで港に向かった。タクシーの運転手さんが教えてくれて、アテネへ向かうミニバスに乗れた。どういう風にチケットを買ったのか覚えていないのだけれど、ボートチケットを持っていたのでそれに追加料金を払ったのかもしれない。
アテネ近郊の港町ピレウスに向かうことにしていたのだが、ピレウスで降りることができるので、あとは乗っているだけでいい。乗り継ぎ乗り継ぎしながらここまで来たので、ものすごく楽だ。車内ではキャンデーを配ってくれた。途中、ドライブインみたいなところで休憩し、昼食をとったのも面白かった。朝9時の船に乗り、夕方4時半ごろには目的地に着いた。
キティラ島で買った赤い花の形をしたピアスは、何度も落としては不思議と出てきたのに、とうとうどこかで無くしてしまった。黄色い花の置物は、ギリシャでお世話になっていたMさんへのお土産にした。私が借りていた部屋に飾ってくれて、その花を眺めながらギリシャでの残りの日々を過ごした。
黄色いリキュールはどうやって飲めばいいのかよく分からず、開けるタイミングを逃し、10何年も経つのにまだそのまま家にある。
そういえばこの旅の前に買ってきたギリシャの蒸留酒ウゾも長いこと開けずに棚の中で眠っていた。花嫁が描かれた箱に入ったボトルは、どこへ行ったのだろう。何かの集まりに持って行ったような気もする。
いまだに覚えている、肌寒い夜の公園のベンチ。薄暗い小さな部屋、黄色い花が並ぶ土産店。キティラ島では、今も静かに時が流れているのだろうか。
(Text&Photos:Shoko)©︎elia