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繰り返し味わう旅の思い出~吉本ばなな「私と街たち」


吉本ばななさんの最新エッセイを読んだ。
ばななさんは、エッセイの数が多いと思う。
あちこちの媒体に書き、自身のnoteにも書いてある。かつては日記をまとめたものも、毎年出版していた。なので、長年ファンをやっていると、知ってるエピソードが非常に多い。
今回の「私と街たち」も、吉本家の墓地、小学校時代の初恋、トータス松本さんが上の階に住んでたアパート、など、「ああ、あの頃のあの話題ね」とわかる。そして妙に安心する。シリーズもののドラマを見続けているような感覚だ。
けれどもさすがはばななさん。オチとか見解が、毎回違う。「あの話題だ、懐かしい!」と親しみを感じさせつつ、毎回毎回新しい「気づき」「提案」を示してくれる、そこがまたばななさんの魅力なのだ。

たとえば「私と街たち」で一番好きだなと思ったのは「とても遠いところ」というタイトルの章だ。
いまからずいぶん前、ばななさんは家族や親しい人たちとギリシャのミコノス島に何度も通っていて、その時の話題だ。

ミコノス島

ミコノス島は世界的な観光地だ。真っ青な海と、真っ白な建物。
朝はゆっくり起きてから冷たい海で泳ぎ、水着のまま入れる海辺のレストランでで魚介類や白ワインのランチをとる。ホテルに戻りプールで遊ぶ。昼寝したり休憩したりして、夕陽が沈むころには食前酒を一杯。それからレストランにでかけ、晩ごはんを食べる。ホテルに戻って食後酒を飲む。完璧な休日。

私も一度だけミコノス島を訪れたことがある。
絵画のように美しい景色。路地裏に入ると、手作りアクセサリーだったり、レースをほどこした布製品だったりと、かわいらしい店が並ぶ。

迷路のような路地裏


屋外にテーブルを並べるレストランも多く、夕方の心地よい風と変わりゆく空の色を体全体で感じながら、冷えた白ワインを堪能できる。なんというか夢の中の世界のようで、完全に、日常と切り離される。

ミコノス島の夕暮れ

だからこそばななさんの提案がよくわかる。
たとえミコノスに行けなくてもいい。旅に出なくたっていい。休日には、体を動かして頭を休めて、のんびり過ごそう。厳しいことが多い人生、そのくらいしないと自分がかわいそうだよ、と。

ミコノス島への旅は、新しいものでは「大きなさよなら」でも「人生の旅をゆく3」でも書かれている。当時の日記(yoshimotobananaドットコムシリーズ)ではリアルタイムに書かれていた。現実離れした美しい島は、思い出の宝庫なのだろう。



「大きなさよなら」ではこんな風に書いてある。ミコノスに行かなくても、日本にいても、日が傾くとさあ夕方だと思うようにしている、それだけで大きな力が入ってくるように思う、夕方の光には、もうゆるんでもいいよ、切り替えようよという力がある、と。




「人生の旅をゆく3」では、ミコノスで大きな鯛を旅仲間と分け合って食べたなあ…という思い出、また、どの本だったかすっかり忘れたが、ミコノスでは健康的に痩せた、それは白身魚やタコやイカを炭火焼などさっぱりとした調理法で食べ、白ワインを飲み、海に入って泳ぐ、という生活を続けていたからだ、これぞ地中海式ダイエットだ、という内容が書かれていたこともあった。


ばななさんのエッセイを読んでいると、ひとつの旅が人生に与える影響は、思いのほか大きいのだなと思う。
旅から帰ってきたばかりのときは、具体的なことが思い出される。あの店のあれがおいしかった。あの街では迷って大変だった、日焼けしてひりひりした……。けれど、時を経れば経るほど、エッセンスだけがよみがえるようになる。そしてそのエッセンスも、ばななさんのエッセイのように、思い出すそのときそのときで「気づき」を変えてゆく。
また、別の旅の思い出との意外な共通点や相違点をふと思い出したりもする。このnoteを書いていると特にそういうことが増えてきた。たとえば、「コーヒー」、「朝食」、「ホテル」などのキーワードで過去の旅を振り返って、自分軸の新たな年表ができたりする。これは、自分だけの宝物だ。

若いころは旅にばかりお金をつぎ込んで、我ながらいかがなものかと思ったこともある。
けれど、そのときの思い出が予想以上に人生を豊かにしてくれている。
旅っていいなあ。年を取るっていいなあ。ばななさんのエッセイを読んでそんな風に思った。
(text:Noriko photos:Noriko&Mihoko) ©elia


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