もう一つの世界との対話 2
文:谷口江里也
クレイドール:カイトウハルキ
©️Elia Taniguchi & Kaito Haruki
目次
第1話 帽子を落とした眼鏡おじさんとの対話
第2話 なぜか僕の部屋に住み着いた蛇との対話
第3話 卵をくれたワニとの対話
第4話 花をくれた象との対話
第1話 帽子を落とした眼鏡おじさんとの対話
出先から仕事を終えて家に帰ってきた眼鏡おじさんは
部屋に入って、床に寝そべっていた僕の姿を見たとたん
ペタリと床にへたり込み
脱ぎかけていた帽子を膝の上に落として
そしてそのまま固まってしまった。
僕はただ寛いでいただけで、別に驚かすつもりはなかったのだけれど
眼鏡おじさんの顔を見ると、なんだか血の気が引いている。
そこで僕は、自分がどういう気分でいるかということと
そういう自分を見た相手がどんな気分になるかということとは
まったくちがうことなのだということを、さっそく学んだ。
僕は思うところがあって人間の世界にやってきたのだけれど
いきなりなんだかとても大切なことを学んだ気分になり
それに、怪しいものではないと眼鏡おじさんに知らせたいこともあって
思わずニコッとしたのに
どうも、それがかえっていけなかったのかもしれない。
眼鏡おじさんの顔はますます真っ青になって、今にも倒れそう。
そこで僕は今度は、表情というものが必ずしも
自分の想いを相手に伝える手段として
常に有効だとは限らないということを学んだけれど
こちらが学んでばかりいても申し訳ないので
あいかわらずボーッとしたまま固まっている眼鏡おじさんのために
なにかしてあげられることはないかと僕なりに必死に考えた。
しかし、すでに学んだ二つのことから推測するに、またどうやら
ちらっと見た眼鏡おじさんの目が虚ろで
焦点が会っていないことから判断するに
ここで僕が眼鏡おじさんにダイレクトに話しかけては
眼鏡おじさんをますます混乱させることになりかねないと思ったので
僕は直接眼鏡おじさんにではなく、彼が落とした帽子に向かって
とりあえず、こんにちわ、と言ってみた。
すると眼鏡おじさんは僕が帽子に向かって話しかけたのに
僕に直接何かをいわれたと思ったらしく、ギョッと驚き
今度は真っ白な顔になって、
な、な、何者だ、ど、ど、どこから来た、つぶやいたのだった。
その様子を見て僕は
意図と結果とは必ずしもつながらないのだということを更に学んだ。
このまま学び続けたら、この先どうなることだろう
予想を遥かに超えた学習スピードに
僕の頭は果たして耐えられるだろうか。
自慢じゃないが僕は歩くのが遅い、ご飯を食べるのも遅い。
頭の回転だって遅くて
何を考えるにも何を思い出すのにも時間がかかる。
しゃべり方だって、かなりゆっくりしている、と思う
だから、僕が、こんにちわ、と言ったのが
聞き取れなかったということは、まさかないはずだと思う。
もしかしたら発音が悪かったのかもしれない、そうだ
僕の口は小さくて、もごもご動くので
人間の言葉をしゃべるのに適していないということを
すっかり忘れていた。
ここはちゃんと、ここに来る前に練習したように
口をシャキッツと閉じたり開いたりして
人間語を正しく発音してみよう。
こ、ん、に、ち、わ。
しまった、眼鏡おじさんの方を見て言ってしまった。
いけない、いけない。
こんどこそちゃんと帽子に向かって挨拶しよう。
こ、ん、に、ち、わ。
ぼ、く、は、あ、や、し、い、も、の、で、は、あ、り、ま、せ、ん。
そういいながらも、我慢が出来ずに、ちらっと上目で見ると
眼鏡おじさんは、腰が引けて入るものの
僕が人間語を話していることに気づいたのか
さっきほど驚いた様子はなくて
なんとなく不思議なものを見るような目で僕のことを見ている。
そこで僕はまた、人間というのは
物事に馴れるのが意外に速いということを学んだけれど
しかしそこで調子に乗りすぎてはいけないと思い
そのまま帽子の方を見て、ゆっくり帽子に向かって話しかけた。
ち、よ、っ、と、ご、そ、う、だ、ん、が、あ、る、の、で、す。
すると眼鏡おじさんの気配から、なんとなく
前よりも緊張感が抜けたのが分かった。
僕は緊張ということが出来ない体質なので
緊張した気配が実は一番苦手で
これまで眼鏡おじさんの全身を覆っていた緊張感が
和らいだのはなによりだった。
そこで僕は、ほんの少し上を向いて
まえよりももっとゆっくりリラックスして
ち、よ、っ、と、お、ね、が、い、が、あ、る、の、で、す
と言った。
何だい薮から棒に、勝手に人のうちに入り込んで
いきなりお願いとは、いかにも虫のいい話だな。
しかしなんだよ、お前のしゃべり方は
いくら何でもかったるい、遅すぎるぜ。
人に何かを頼むんだったら、もっとてきぱきとだな
要領よく、ちゃんと人に分かるようにいわなきゃ駄目だぜ
で、なんだい、そのお願いってのは。
眼鏡おじさんは、いきなり早口でしゃべり始めたけれど
ビックリしたのは、さっきまで固まっていた人とは
まるで別人のような話しぶり。
まるで僕のことを昔から知っていたかのよう。
そこで僕はまたまた、人間というのは
気分次第で様子がすっかり変わる動物なんだということ
そしてさらに、その気分そのものが、いきなり
ころころと変わるものなんだということを学んだけれど
しかしそれはいったい、何をきっかけに
どこでどのように変わるものなのかと僕が必死に考えていると
いきなり上の方から眼鏡おじさんの声がした。
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