アトランティスロック大陸 5 (1972~79)
風の記憶、岩の夢
My United Stars of Atlantis
谷口江里也 著
©️Elia Taniguchi
目次
第39歌 Listen to the music ドゥービー・ブラザース 1972
第40歌 Smoke on the Water ディープ・パープル 1972
第41歌 Angie ローリング・ストーンズ 1973
第42歌 I shot the cheriff エリック・クラプトン(ボブ・マーリー)
1974
第43歌 Born to run ブルース・スプリングスティーン 1975
第44歌 Sailing ロッド・スチュワート 1975
第45歌 Sara ボブ・ディラン 1976
第46歌 Hotel California イーグルス 1976
第47歌 Sultans of Swing ダイアー・ストレイツ 1978
第48歌 Massage in a Bottle ポリス(スティング) 1979
第39歌 Listen to the music 1972
ドゥービー・ブラザース
日に日に高まってくる気がしない?
みんな何かを始めたがっているんだ
幸せな人も、悲しい人もいるけど
とにかく俺たちは、音楽を演奏することにする
ドゥービー・ブラザースという怪しげな名前のバンドが、Toulouse Street というこれまた駄洒落のような意味不明のタイトルのアルバムを出した。ジャケットを開くと、メンバー全員が裸で裸のおネエちゃんをはべらせた写真が載っている。アホじゃなかろかと思ったが、レコードを聴いてみて驚いた。
次から次ぎに、ジャケットのぼやけた印象とは反対に、実に歯切れの良いサウンド飛び出して来る。何だこいつらはと、もう一度ジャケットを見るが、いかにもアメリカンなメンバーは、まるでそのへんから適当に寄せ集めてきたかのような雑多な不揃いぶり。ところがサウンドは対称的に軽快で、声には艶も張りもある。オマケにそのコーラスがまた、見事の一語。
人は見かけによらないもんだとあらためて一曲一曲を聴いてみると、小気味の良いリズムに重なるアコースティックギターの澄んだ音色が、適度の緊張感とパワーを漲らせたエレクトリックギターやボーカルのスピード感と一体となって、実に快適。
曲もバラエティに富んでいて最初から最後まで、全体として緩みがなく、バンドとしてもアルバムとしても、見事な完成度をみせていた。一体全体どこからこんなバンドがと思うと同時に、そんなバンドがそしらぬ顔をして突如現れるアメリカの底力のようなものにも驚いた。そしてアルバムのプロデューサーとしてクレジットされているテッド・テンプルマンという名前が、なぜか妙に記憶に残った。私がプロデューサーという存在を気にし始めたのはその頃からだ。
ミュージシャンやバンドは、誰もが必ずしも自らの資質や長所を的確に把握しているわけではない。どんなアーティストでもそうだが、自分が出来ること、出来るかもしれないことと、自分がしたいこととの間には、多かれ少なかれギャップがあり、それに自覚的かそうでないかが、アーティストのアイデンティティの確立に少なからぬ影響を与える。
コスモスの茎にはバラの花は咲かない。紋白蝶はオニヤンマのようには飛べない。だからといって、コスモスの花が美しくないわけではない。紋白蝶の飛ぶ姿が、美しくないわけではない。それぞれの命には、それぞれの命の輝かせ方がある。
逆に言えば、自らの資質や個性や、育ってきた環境や歴史こそが、一見ネガティブに見えることも含めて、その命に固有の財産であり、美や普遍性は、それとダイレクトに向き合い反応することによって生まれる。
しかも、内在的にであれ外在的にであれ、客観性の洗礼を受けていない美は、他者を感動させ美として生き続ける力を持たない。人を介して広がる普遍性を持たない。そしてそこに、プロデュースという仕事の意味があり役割がある。
プロデュースとは、制作に必要な資金を調達することではない。バラバラな個性や、自らのポテンシャルに無自覚な才能に、それらを集積し開花させるに相応しいテーマやレベルやシチュエーションやヴィジョンやスタイルを呈示すること。そしてそこに到るディレクションという名の目的と、さらにはそれを可能にするコンセプトを黙示すること。それがプロデュースという仕事の最良の働きに他ならないが、このアルバムの完成度は、そんな錬金術とも言うべき理想的な力が働いているように思われてならない。
音楽を聴け
音楽を聴け
音楽を聴け、一日中
このフレーズには彼らの強烈な自負と主張が溢れている。そしてそれは、少なからずテッド・テンプルマンとの出会いによってもたらされたもののように見える。幸運な出会いは、もしそれが有効に用いられさえすれば幸運な結果を産む。そうして産み出された作品は、それに関わったひとりひとりの表現力という名の決断力を飛躍的に高める。
表現には、無限にある可能性の中から、たった一つの現実を選び取り、それ以外の全てを捨て去る勇気が必要だが、その勇気は、実際に何かを創りだし、それを客観的に視ることの繰り返しの中からしか生まれ得ない。どんな才能も、外に表れるまでは無いも同然であり、もし結果が満足できるものからほど遠かったとすれば、それがその時点の自分の現実の姿なのだ。
しかしその繰り返しのなかから、幸運にもすぐれた結果がひとたび産み出されたならば、それは表現者としての自己認識にダイレクトにつながるばかりか、自己に対する暗黙の信頼として、表現者の体の中に少しずつ、筋肉のように蓄えられる。
大雑把に言って、表現力は具体的には、そんなある種のインターバル・トレーニングによって鍛錬される。そして走り高飛びに適した者が重量挙げの選手を目指しても勝ち目が薄いように、表現の女神は、先天的に、あるいは後天的に自らが持つコンディションに最も適した場所で勝負する者に微笑む。もし適した種目がなければ、自ら新たに創ればよいのだ。表現というフィールドの無限の可能性と不思議さがそこにある。
もし表現しようとして、自分に才能がないと嘆く者がいるとすれば、あるいは、いつまでたっても良い結果を産み出すことが出来ずに悩む者がいるとすれば、その原因は有り体に言えば、実際にやってみたことがないか、鍛錬を怠っているか、自分自身やフィールドを見誤っているか、それとも、この世にはすでにあるものしか存在しないという迷信に捕らわれて、新たなフィールドに踏み込む勇気が持てずにいるか、それとも、自分にとって確かな何かを粗末にしているかに尽きる。
誰しも持てる力以上の力を出すことは出来ないが、逆にある一定程度の力を蓄えた者にとっては、その範囲の内にある全てのパフォーマンスは、すでに平常の作業に過ぎない。素人にとって楽器が上手く弾けるようになることは至難の業だが、優れた演奏者にとっては、下手に弾くことは、上手く弾くことよりも難しい。だが楽器はなにもギターやピアノばかりではない。口笛だって、ドラムカンだって、使い方によっては立派な楽器の働きをする。
そこに美というものを創りだし感受する人間の不思議さと、作品やオリジナリティの完成度の不思議さがある。ドゥービー・ブラザースは、ロックが閉塞感を見せ始めた時代に、不揃いな才能たちが、自らのターゲットを、リズムやスピード感や音色や唱和といったロックバンドという形式が創り得る「音」とその「楽しさ」にピンポイントで合わせることで開花した幸運なバンドだ。
ゲバラ帽を被ったベースのタイロン・ポーターを真ん中に、トム・ジョンストンとパット・シモンズがステージの最前線に陣取り、3人一列に横並びに並んで、見事なハーモニーと絶妙のリズム感で軽快に爆走する彼らのステージには、とにかく、問答無用のカッコ良さがあった。
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