まるちゃんって、多くの人にいい人って思われてたり、
自分でも善良な人間っておもっているかもしれないけれど
わたしからしたら、いい人なんかじゃないわよ。
と、ある時、ひとみちゃんが言った。
わらってしまった。
その後その言葉は時間をかけて奥行きを持ち、
私の思考を深める助けをしてくれていて
自分の行動一つとった時に「ああ、わたしむかついてるし、相手にいい顔しようとしていま、自分が傷つかないようにこの発言をしたんだな」
と気づいて
その次に相手に対して発する言葉を変えてみる、とか
自分の動き方を変えてみる
例えばメールの返信をする時に
やたらと自分が悪かったと謝らないとか、
自分の都合を度外視して、いままでだったら咄嗟に電話がかかってきたら相手ファーストと思い込みすぐに折り返していたところをやめてみる、
まず相手と自分の間に何があったと、自分のテーブルに出してみて、
相手に見せて話してからどうしたらよかった、自分が悪かったと自省するのか決める。とか
そういう風に自分の動きをかえてみている。
あの指摘を受けた時、
以前のわたしだったらどうだっただろうか。
自分が苦しいくせに、変わりたいくせに、疲れ果てているくせに
その殻を必死にまもってきたから
「そんなことをひとみちゃんから言われたくない!」
と、真っ向拒否してその言葉を受け取らなかったとおもう。
そして問題を横において、ひとみちゃんへの恨みつらみをふくらませ
明後日の方向にエネルギーを向けていただろう。
(おつかれ、わたし。ごめんなさい、ひとみちゃん。)
そして、
受け取らないと、どうなるかというと、行動をかえないので、何も変わらず苦しいという渦にのまれるままの人生が続く、というわけだ。
「食べ物の味」は、塩味、酸味、甘味、えぐみ、苦味、旨み、深み、・・・
などが多岐に渡り織り重なり、つづれ織られて、奥行きがあり、高さがあり、球体になって存在している。
そう感じている。
だからなにかをたべたときに わたしは
球体でいうと、右上の奥の方の味が足りない、出汁だったかしら。しかも、カツオ系の。
となって、自分の中で調理のアナリーゼがはじまるのだけれど
それをしているとき
わたしは「たのしいー!!」と言う感覚を持つ。
そうしてトライアンドエラーを繰り返し、味わいは深みと厚みを増していく。
さて、
人間の魂における「使命」とか「その魂の今回の役割」みたいなもの。
それらもおそらく
「球体」なんじゃないかな。と、最近感じていて。
なんだかそこには不思議なしくみがあって
「視点の欠け」みたいなものは、自分だけでは見つけられないようにできているらしい
だから創造主は、「他者」という存在をこしらえたうえで、わたしたちはこの地球にばらまかれたのではないだろうか。なんてかんがえている。
他者という存在があって、自分には見えない「視点の欠け」、自分が自分足るために、必要な「視点の欠け」を指摘してもらい、それを受け取って、自分のものにしたとき、
はじめて自分が補完されるのかもしれない。と。
そうして自分という球体がしっかりとした形を帯びていく。
人から指摘されたことは
「本当であればあるほど」
「必要であればあるほど」
真正面から受け取らない・受け取れないようにできているみたいで
拒絶すればするほどに、球体の一部はぬけおちて
まるい球体のその部分を補うことができないような仕組みになっているのかもしれないとおもう。
降参して、受け取って、変えてみて、味わう、を繰り返してけば、その先に
自分という味は、どんどん深まり
うまみをまして
自分の大好きな球体になるんじゃないかな。
わたしの魂のアナリーゼは、はじまったばかり。