性と承認欲求。
性欲と、承認欲求。
男女問わず備わっているもの。
性欲を満たす行為は本当に自身から湧き上がるものからなのか。
自己を補うための承認欲求のためか。
マズローの欲求6段階説では、性欲も承認欲求もどちらも欠乏欲求に当てはまる。欠乏欲求は環境に依存し長くは続かない。
①から埋まるごとに、人は次の階層に行けるのだという。
①生理的欲求(性欲はココ\_(・ω・ ))
②安全欲求
③所属と愛の欲求
④承認欲求
⑤自己実現欲求
⑥自己超越欲求
この内①~④までは欠乏欲求で、⑤と⑥が成長欲求と呼ばれる。成長欲求で満たされるものは継続するけれど、欠乏欲求で満たされるものは続かないという。そしてまた性を求める。また承認欲求を満たしたくなる。性を話したいnoteでこんなことを言ってしまっては元も子もない。
ただ、マズローの言う欠乏欲求が続かないものであるとわかっているなら、次の階層を目指し自分の中で継続するという成長欲求を満たすようでもありたいと思う。
性と承認欲求はきっと人間にとって大事なもので、切っても切り離せないのなら、いっそ次の階層の欲求に行くまでのあくまで過程なのだとして、その段階を楽しめばよいのかと解釈してみる。
さて、性欲を満たす行為は本当に自身から湧き上がるものからなのか。
自己を補うための承認欲求のためか。
自分なりの結論として、単純な性欲ではなく、もしそうであるなら本当はやめるべきだと、自身の承認欲求を満たすための解決策としては間違っていると考えると、こんなところで敢えて発言する。
自身に足りないものを埋めたいと思っても楽をしてはいけない。それでは永遠に埋まらないし、同じ埋め方を一生続けなければならない。
それでいいのか、ちゃんと自問して自答する必要がある。自問して、自答してそれでも出た答えを大切にするべきだと思う。
人と人が出会って体を重ねることは物理的には簡単だけど、それで解決したい問題には根本的には効かない。誰がどう思おうとほんの少しのスパイス程度の承認欲求を満たす位に留めておかないと、自分で自分自身を承認できないのなら、本当はそうあるべきでないと考える。
自分で自分を承認できる場合、自分に責任を取れる場合、行為をしてよいのだ、と思う。
体さえあれば繋がれる。わけではない。
その後の責任を取るのは結局自分であるということ。
ただ人は正解も間違いも選べるというだけ。
正解か不正解かは、後の自分が決めればいい。
さぁ、どちらを選ぼうか。
どちらにしても、あくまできっと過程なのだとして、その段階を楽しめばよいのだ。その先にあるものを望むのなら。