「これは水です」 ウォレスの卒業式スピーチの要約と考察
GRAPEVINEの15thアルバム『ROADSIDE PROPHET』に、「これは水です」という曲が収録されている。
「これは水です(原題:THIS IS WATER)」は、作家のデヴィッド・フォスター・ウォレスが2005年、ケニオン大学で行った卒業式スピーチのタイトルだ。
このスピーチは2010年、タイム誌で「ベストワン」と評されたことで有名になった。また、GRAPEVINEファンであれば興味をそそられること間違いなしだろう(私もそうだった)。
どんなスピーチなのだろう。そして田中氏が書いた歌詞とはどのような関係があるのだろう。そう思って読み進めたのだが──。
このスピーチ、「よくわからない」のである。
「説法するつもりはない」と言いながら教訓めいた話は出てくるし、その割には、かのスティーブ・ジョブズの"Stay hungry, stay foolish(ハングリーであれ、愚直であれ)"のようなパンチラインは出てこない。
ウォレス自身もこのスピーチを「陽気でもないし、ひとを大いに鼓舞するものでもない」とことわり、肝心のポイントを「聞き飽きた常套句」と表現するほどだ。
従来の卒業式スピーチと大きく異なるがゆえに、THIS IS WATERは「よくわからない」と捉えられることが多い(レビューなどを調べてみたが、私だけではないようだ)。
ただ、このままではモヤモヤする。なので、スピーチを要約しながら、最後にはこれが語られた背景、そしてウォレス自身について考察してみたい。
「水」=ありふれた、一番大切な現実
スピーチは、水のなかを泳ぐ魚たちの会話から始まる。
老いた魚は、若い魚に問う。「水はどうだい?(How's the water?)」。すると若い魚はこう答える。「水って一体、何のこと?(What the hell is water?)」。
若い魚は、水なしで生きることができないにもかかわらず、生まれたときから水中で過ごしてきたがゆえに、水を認識していないのだ。
ここで、水が示しているものは私たちの身の回りのごくありふれた風景だ。それは考えることが難しいにもかかわらず、一番大切なものであるとウォレスは伝えており、これがスピーチの重要なポイントとなる。
「自由になる」とはどういうことか
ウォレスは次に「リベラル・アーツ」の定義について言及する。
ケニオン大学は、アメリカの有名なリベラル・アーツ・カレッジの1つ。リベラル・アーツ・カレッジは
実用性・専門性よりも、幅広い知識や教養を身につけることに主眼が置かれ、学生への“人間教育”を重視している点が大きな特徴
──Benesse「今、注目のリベラルアーツカレッジとは?」
とされる大学だ。
それゆえに、リベラル・アーツは「一般教養」と捉えられることが多い。しかし、ウォレスはこれを人間を自由にする学問であるとし、そのなかでものの考え方を学ぶ・何を考えるべきか選べるようになることが重要だと説く。
そして、そのために「少しばかり謙虚になり、自分自身と自分の確信に少し“批判的な自意識”をもつ」ことを勧める。
ここでいう「自分自身」「自分の確信」はごくわかりきったこと、つまり、前述の「水」にあたる。
では、私たちはなぜ自分自身のことを「ごくわかりきったこと」と思うのだろう。それは、この世に実在するもののなかで、自分以上にリアルな存在はいないからだ。
どんなに大切な家族も、愛する恋人も、彼らの感情にじかにふれることはできない。それができるのはいつだって自分に対してだけだ。
それゆえに自分のことを「ごくわかりきったこと」の枠に入れてしまう。それどころか「私の解釈は正しい」という傲慢な考えに至ることもある。
ウォレスはこのような自意識を人間のデフォルトと呼び、それを手直しする必要性を訴える。
もし手直しできなければ、退屈で、決まりきって、些細な苛立ちであふれ、虚しく、面倒くさく、無意味としか思えない日常が延々と続いていくからだ。
(ウォレスはこの状態を「頭の奴隷」と表現する。そして「銃で自殺する大人のほとんどが撃ち抜くのは頭部」「これは偶然ではない」「自殺する人の大半は引き金を引く前からとうに死んでいる」と続ける。)
では、人間のデフォルトはいかにして手直しするべきか。そして、無意識まかせの思考から脱するのか。
それは、何をどう考えるか、コントロールする術を学ぶことだ。意識して心を研ぎ澄まし、何に目を向けるかを選び、経験からどう意味を汲み取るかを選ぶことだとウォレスは話す。
「暴君の自由」を崇拝するな
何を考えるか・何に目を向けるか・どう意味を汲み取るかを「選ぶ」ということは、何を崇拝すべきかということでもある。
崇拝というキーワードから、あなたは何を思い浮かべるだろうか。神、金、モノ、美貌、権力、知性──これらを信じる人はきっと多いだろう。
それに対してウォレスは(もちろんそれさえも自由に考えるべきだと前置きしつつも)そういった類を崇拝すれば「何百遍でも死ぬ」と忠告する。
なぜなら、神や権力のようなものは徹底した自覚なしに嵌まり込んでいくケースが多い──つまりは無意識の崇拝であり、リベラル・アーツの本質である「何をどう考えるか」の対極にあるからだ。
また、現実の世界や文明は、人々がそのようなものに対して感じる恐怖や渇望を利用しているからこそ滑らかに回っているのであり、それは「ふんぞり返る暴君の自由」と呼べるだろう。
そしてウォレスは「僕の知るかぎりの真実」をこう話す。おそらく、このスピーチで最も重要なパートだ。
本当に大切な自由というものは
よく目を光らせ、しっかり自意識を保ち
規律を守り、努力を怠らず
真に他人を思いやることができて
そのために一身を投げうち
飽かず積み重ね
無数のとるにたりない、ささやかな行いを
色気とはほど遠いところで
毎日続けることです。
それが本当の自由です。
ウォレスは卒業生に、50歳になるまでにそれを見つけるよう促す──銃で頭を打ち抜かずに済むように。
すべては、私たちの身の回りのごくありふれた光景、つまりは「水」のなかに潜んでいる。そのため、常に自分を励ましながら「水」を意識しなければならない──そうして生きていくことは、想像を絶するほどに難しい。
ウォレスは終盤で「THIS IS WATER」と二度繰り返し、卒業生の幸福を願ってスピーチを終える。
早すぎる幕引き
素晴らしいスピーチと評されたTHIS IS WATERだが、ウォレスが卒業式スピーチを引き受けたのはこの一度きり。
ウォレスはこの3年後に自殺を図り、46歳という短い人生に幕を下ろした。
大学院時代には鬱病を、自殺の数年前からは双極性障害を患い、複数回の自殺未遂を経験。その間に作家としては1088ページにおよぶ超大作「Infinite Jest」を出版し、タイム誌の「100冊の最も優れた小説」にも選出されたものの、10年あまりを費やした次作の長編を完成させることはできなかった。
ウォレスが亡くなった当時、アメリカ経済はリーマンショックの影響を受け、大混乱のなかにあった。リベラル・アーツの権化ともいえるウォレスは経済史にも詳しく、未完の遺作を通じて「価値とは何か」を問い続けていたそうだ。
自分自身に忠実かつ厳しく、現実主義的で、完璧主義でもあったであろうウォレス。自分の精神を犠牲にしてまで、人間、学問、社会、そして生きていくことの真理を追わずにはいられなかった彼に、この世界はどう見えていたのだろう。
無心に神に祈り続ける人間、金や貴金属によって自尊心を満たす人間、美貌や若さに執着する人間、権力に酔いしれる人間......。「自分のことはよくわかっている」「考える必要もない」と思い込み、無意識のうちに不自由に嵌まり込んでいく中で、倫理を度外視したビジネスや、弱者が自己責任の枠に押し込められてく社会が作られていく。
そんな「水」に辟易しながらも、自分もまたその中で生きている。だからこそ彼はリベラル・アーツの本質を体現するように、大きな葛藤のなかでも思考をやめず、執筆という生産活動を続けながら、自分と対峙し続けた。
そんなウォレスの道のりに目を向けると、THIS IS WATERは、思いやりや倫理、精神論以上の意味を持ってくる。
ウォレスは、「人を自由にする学問」であるところのリベラル・アーツを学んできた卒業生に、「あなたたちであれば選択肢があることを見抜けるはずだ」と鼓舞した。しかし、ウォレスはリベラル・アーツの本質の素晴らしさを信じてきた自分にも、強く語りかけたはずなのだ。
この水の中を泳ぎ続けるのは、想像を絶するほど難しい。だけど泳ぐんだ。何の奴隷にもならず、自分の頭で考え、選ぶんだ。いつの日か、本当に自由に泳ぎ回るために──。
スピーチから迸るそんなメッセージは、当時も厳しい精神状態にあったであろうウォレスにとって切実な願いだったのだろう。
成功体験や失敗事例にもとづく明確な教訓を、キラーフレーズとともに繰り出す従来の卒業式スピーチとは異なり、「よくわからない」と捉えられることが多いTHIS IS WATER。それは、ウォレスがまだ道半ばにあったことが大きな要因なのだと思う。
その道は惜しいことに閉ざされてしまったが、彼の教えは今でも、本やYouTubeを通じてふれることができる。
だから、もし機会があれば、自分に問いかけてみてほしい。
「水はどうだい?」
▼「これは水です」の歌詞について、このリプライで少し考察しています。
Top Photo © GRAPEVINE on YouTube