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延命のグラデーション・解釈の責任
昨日まで営業の仕事をして歩き回っていた特段病気の無い40歳男性が誘因なく失神し心肺停止状態になったその場で胸骨圧迫をされたまま病院に搬送された場合、気管挿管も胸骨圧迫も延命治療ではない。
10年の経過がある認知症を有し、意味のある言葉をしゃべらず、笑顔が見られることはなく、寝たきりで一週間前から殆ど食事を取れなくなった100歳男性に対しては、末梢点滴や皮下点滴すら延命治療になりえる。
故に本人が延命治療を望まない、と意志表明するだけでは不十分で、具体的に話し合う必要があります、というのが医療者側の典型的な言い分だ。
しかし、何が延命で何が延命でないかは、刻一刻と移り変わる。
例えば先ほどの40歳男性が胸骨圧迫がなされたが心拍が再開せず、人工呼吸器が装着されたが法的脳死の基準を満たした場合、彼に行われる全ての医療処置は延命治療である、と解釈することができる。
100歳の時点では全ての治療が延命になりえたかもしれないが、彼が92歳だったときには軽度の認知症はあるもの毎朝近所の喫茶店でモーニングを食べていたなら、一週間前から食事がとれなくなった理由は入れ歯が合わなくなったからかもしれない。当然ながら入れ歯を調整することは延命治療にならない。
何が延命治療になって、何がならないかは年齢、認知機能、日常生活動作の自立度、並存疾患、本人の価値観といったものが複合的に絡み合うものだ。
そして延命治療をするかしないかは、本人の意思の尊重といわれるが、これほど認知症が蔓延している時代においては、家族と主治医の話し合いで何を延命とみなすかが決まってしまいかねない。
で、一応これは本人の意思を推定しましょう、ということになっている。
40歳の家族なら多分それはできると思う。
しかし、100歳の場合配偶者は亡くなっていることも多いだろう。
子供だって75歳であれば認知症を発症している可能性もあり、また疎遠である可能性もある。
つまり、医学的に見てこれは延命だろうか?ということを考えて治療しなければならないということだ。
高齢者医療をやっていれば、延命にグラデーションが存在し、そう簡単に切り分けることができないことがわかると思う。
だからこそ今の時点で何が延命になって、何が延命にならないかを考えるためのフレームワークが共有され、整備されていくべきだろう。
話し合いをしましょう、だけではだめなのだ。