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フレイル(脆弱)と、インヒアレント・ヴァイス(固有の瑕疵)

 フレイルとは、加齢により心身が老い衰えた状態のことである。
加齢し、心身が老い、衰えた状態では、その人が若い頃には問題のなかった、温度変化、感染、溢水、脱水、外傷などが致命的になりやすい。

 インヒアレント・ヴァイス(inherent vice)は、固有の瑕疵という海上保険用語である。

「船積み貨物が意図された公開の通常の過程で、偶然的な外部の事故が介入することなく、貨物自体の自然の反応の結果として被る品質劣化である」

「航海の通常の過程で発生する通常の出来事に堪えられない貨物の欠陥状態」

 のことだ。

固有の瑕疵が認定された場合、その貨物の損壊に対して、海上保険会社は支払い責任を有さない。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/giiij/75/1/75_1/_pdf/-char/ja

つまり、航海の過程で自然に壊れうるものの損壊は、保険でカバーされない、ということだ。


 当然ながら、健康保険法やその関連法には、固有の瑕疵に関する記載はない。

 ただ、現実的には、あまりにフレイルな高齢者を見た時には、自然な老化の過程であって、通常の生活で起きる自然な出来事に堪えられない状態ではないと判断することがある。

 治療をすればするほどに、僅かな出来事で死に近づくときに、どこまで治療するべきかはいつも考えることだ。
 本人が「状況を理解した上での」意思表示がもはや不可能となってしまったときには、なおさらだ。

 老衰の過程と治療可能な疾患の間は明確ではない。
転倒も誤嚥も、致命的になりうる状態であっても、治療を工夫することで、誤嚥や転倒が起きる確率を下げることはできる。
ただ、生きている限り老化は進行するから、一日一日が過ぎるごとに、その確率はまた、上がっていく。

 本人が注意する能力は低下していることが多く、現実を認識できないことも多いから、私は老化しているから歩くのを止めようとか、私は誤嚥しやすいから食べるのをやめよう、と意思表示されることは滅多にない。

 だから、誰かが介助しなければならない。
介護施設であれば、責任が生じる。子でも、義理の子でも、関係性によってはそうだ。
介護者、介護施設、主介護者は転倒させない責任、誤嚥させない責任、転倒や誤嚥をしたとして、可能な限り被害を防ぐ責任が生じてしまうことになる。
 転倒や誤嚥に適切な対応を取らなければ、どれだけ高齢でフレイルであっても、賠償責任を負うことがある。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhgmwabun/16/5/16_346/_pdf/-char/ja

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202211/0015773009.shtml

 
 責任があるために、誤嚥性や転倒が起きた時、救急要請が行われる。そうしてはじめて、やるべきことは適切に行っています、と判断される。
 その結果、急性期病院の医療資源が使用され、使用された分の費用が社会保障費から支払われることになる。

 しかし、これは「老化の通常の過程で発生する通常の出来事に堪えられない人間の欠陥状態」と考えることはできないか。
 そして、フレイルな高齢者の固有の瑕疵と考えた時、保険によって治療費が支払われる根拠も、介護者に生じる責任も、なくなるのではないか。


 もちろんこれがいきなり実地に使用されれば、高齢者虐待が起こりえるだろう。人間は貨物ではない。保険の基準が貨物と同じであってよい筈はない。

 ただ、発想を転換するヒントにはなる。

 フレイルな高齢者においては食事を摂取できない、転倒し骨折し寝たきりになる、誤嚥して肺炎を発症し致死的になる、といった状況は避け得ないか、回避のために非現実的なコストを有するものである。

 老衰に対する責任の問題を回避するには、これらを発症した場合は老衰と捉え、急性期医療は希望せず、責任も追及しないという態度を示すことが、人生のどこかの時点で必要になるのだと思う。
 そういった意味で、老衰というのは、もしくは終末期というのは、医学ではなく、価値の問題である。

 老衰は価値の問題だから、入院したときや、認知症の診断を受けた時に、しっかりと話すべきことなのかもしれない。

 ただ、予見して備えて、書面に残しなさいというのは、本人にも家族にも酷な話だ。
それに、専門家を含めた医療従事者の予測がさして上手なわけでもない。というか、医療や介護を適切に行うことで、かなり持ちこたえることができるのも事実だ。
 いつかは、どれだけ治療をしても助からないときは来る。でも、医療の終わりをどう決めるのかは、本人や家族の意志がかかわってくるだろう。

 色々なことがわからなくなったときに、人生の終わりをどう判断すべきか、ということだ。

 正直言って考えたいことではない。
何か判断するための価値基準のセットがあるとよいのだろう。それは伝統や宗教になる。もしくは話し合って自分たちで考えていくかだ。

 話し合うにしても、多くの医師は価値を考えることは得意ではない。生命に対する特定の価値観を持っていたとしても、それを話さないように教育されている。
 それに多忙だから、価値について考える十分な時間を提供できるわけでもない。

 

 退職し高齢であれば、時間は十分あるはずで、順調に年老いれば、老衰で死亡することは明確な事実である。
 それでも多くの人が人生の終わりに関する明示的な考えをもっていないということは、考えたり話し合うのが不快なものごとなのだろう。

 あまり考えたくないことを考えさせるのは、怒りや不満を含むネガティブな感情を誘発する。
 考えることをやめてしまうこともある。わかりません、と答えられることもある。

 自分を含めた親しい人の死を受け入れるべきだと判断を下す責任を負いたくない。
 結局のところ、これがすべての原因なのかもしれない。

 最近人生会議、つまりアドバンスド・ケア・プランニングが提唱されるようになった。ただ、そのはじまりである、蘇生処置を行わないことに関する同意、つまりDNR自体が「蘇生を行わなくても訴えられない」ことへの保証のために行われた歴史がある。

つまり、人生会議に至る歴史の始まりには、医療従事者の責任回避の要素が含まれているのだ。
 それに、人生会議を行ったら、入院は減るかもしれないけど、ケアの満足度を改善する証拠はない。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/35964662/

 じゃあ私が責任を負うよ、と言ってくれる誰かをずっと待っていて、でも叶えられない。そういう話なのかもしれない。


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