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”永続的な”身体拘束の倫理的問題
入院すると身体拘束が必要になることがある。
精神科でもあるのだが、このトピックについては一旦除外する。
内科入院での身体拘束の話をする。
認知症患者は急性感染症と入院を契機にせん妄を発症することがしばしばある。せん妄の結果点滴を抜いたり、ベッドから転落しそうになるので治療を継続するために身体拘束を要することがしばしばある。
これは通常、抗菌薬ないし抗ウイルス薬で急性治療を行い、点滴をして脱水と電解質失調を補正しつつ、少量の抗精神病薬を短期間併用することで基本的には離脱できる。
こうした状況での身体拘束は、切迫性. 非代替性. 一時性の条件を満たす。
つまり、感染症の治療が継続できないことは命に係わる切迫性があり
薬が効いてくる、もしくはないふくできるようになるまでは他の手段で代替できず、また急性感染症は治療できる見通し、つまり身体拘束は一時的なものとなる見通しがある。
時にこうした行動制限が永続的なものになる場合がある。
というか、病院によっては多くの患者さんが永続的な行動制限が行われていることがある。
永続的な行動制限を要する患者は幾つかのパターンに分かれる
1.基礎疾患の症状が強い
これはありえる。つまり認知症の中でも周辺症状が目立ち、性的異常行動、暴力・暴言などが目立つタイプだ。ただ、どちらかといえばこうしたタイプは、急性期治療が終わった段階で精神科病院への転院が妥当であるが誰もそれを選択肢として考慮していない、ということが多い。
つまりこれは実質的には精神科的な身体拘束の問題になり、精神保健福祉法における身体的拘束の問題となり、本稿の話題からは外れる。
2.せん妄を引き起こす薬剤やデバイスが使用され続けている。
3.自己抜去を繰り返さないための身体拘束を要する
これらは一部重複する部分があるので、まとめて記述する。
抗コリン薬、抗ヒスタミン薬、ベンゾジアゼピン系薬など、せん妄のリスクを高める薬剤は複数ある。こうした薬剤が継続される限りせん妄が持続して行動制限も永続化することはしばしばある。
薬剤の知識がなく、投与が続けられた場合当然に永続化される。
悲惨なのは内服を拒否するから内服継続のために経鼻胃管が挿入される場合だ。当然ながら鼻に管を入れられたら抜く人も多い。鼻の管が抜けてしまうからという理由で身体拘束が続いてしまうことも多い。
デバイスで言えば、心電図モニター、点滴、経鼻胃管、胃ろう、中心静脈カテーテル、フットポンプなど、体につけるものだ。
認知症高齢者の場合、食事が取れないという理由で点滴、経鼻胃管、胃ろう、中心静脈カテーテルなどが装着されることが多く、尿が出ないあるいは尿量の測定が必要だと言うことで尿道カテーテルが挿入され、不整脈感知のために心電図モニターが装着されることがある。
これがせん妄のリスクを高め、デバイスを自ら取り外すリスクも高まり、一度そうなってしまえば行動制限が必要になる。
特に尿道カテーテル、胃瘻、中心静脈カテーテルなどはその性質上抜去による障害も大きく、泌尿器科、外科など専門科受診が必要になることがある。
必要な医療だから永続的な行動制限が必要だ、という主張はある。
看護師など現場のスタッフが不足しているから行動制限をしないと現場が回らないという主張もある。
しかし、必要な医療なのだろうか。
生命を延長させる目的のために永続的な行動制限を実施することは本人のどんな利益になるのだろうか。
つまりここで、生命の延長と永続的な行動制限を天秤にかける必要が生まれる。
僕の知る限り、多くの人は自分自身が永続的に行動制限されることを希望しない。
勿論、家族にそうなってほしくないと思う人も多い。
というか、99.99%の人は永続的な行動制限を肯定しないだろう。
逆に言えば、だからこそ刑務所内での刑罰で最も重いものが閉居罰になるのだろう。しかし閉居罰でも壁を向いて座り続けることであって、夕食後は幾分の自由があるし、一日中手や胴体を動かせないということはない。
この閉居が罰として機能することそれ自体が、身体拘束が一般化できる苦痛であることを示している。
では、身体拘束を避けるためには何ができるだろうか。
一つは不要なデバイス類を外すことだ。
点滴、経鼻胃管、尿道カテーテル、心電図モニターなどを外すことで穏やかになる高齢者は多い。
もし点滴を受けたことがあるなら、その不快さはなんとなくわかるだろう。
耳鼻科でファイバースコープ検査を受けたり、経鼻内視鏡を受けた人なら、経鼻胃管の不快感が少しわかると思う。だからこそ麻酔をしたり事前の処置を行ったりするわけだ。
こうしたものを外すだけで不穏が軽快することはしばしば経験する。
そうして食べれる範囲の経口摂取を継続することにすれば、ベッド転落を予防するためのマットや四点柵程度の拘束で問題なく過ごせることはしばしば経験する。
もう一つは不要な薬剤を減らすことだ。実際、非常に攻撃的だった高齢者が甲状腺ホルモンの不適切な補充をやめることで改善したり、抗コリン作用のある薬をやめることで、尿閉も軽快し尿道カテーテルを抜去してすっかり落ち着く、ということも少なからずある。
最後に、そもそも病院に入院しない、というのが一番のせん妄を避ける方法である可能性もある。
抗菌薬は内服にして、食べれる範囲で食事をして、亡くなってしまう場合はそれは大往生であると皆が納得できれば一番良いことなのかもしれない。
実際、人生の最後を永続的な身体拘束で終える、というのは良い最期とは言えない。僕は自分の人生を行動制限と共に終えたくはない。
そしてそれを避ける方法は複数あるが、病院は不要な投薬をしないこと、不要なデバイスを装着しない事、入院を薦めないこと、このどれもが苦手である。
救急車を呼んだ場合はなおさらだ。
永続的な行動制限が肯定されうる状況とは何か、永続的な行動制限を解除するためにどこまで患者本人のリスクを高めてよいのか。
これに関する倫理的指針が求められるように思う。