見出し画像

117 「対話による鑑賞」は、僕がやりたい校内研修の比喩になるのかもしれない。

木曜日の校内研修初回に向けて絶賛準備中です。

先日、校内研修の最終打ち合わせをしたのですが「なぜ、その方法で進めていくのか」を、ちゃんと語った方がいいと思うという助言を受けました。けれど、僕が対話をベースとした校内研修がしたい理由はたくさんあって、短時間で言うことなんでできそうにありません。あの人にとってはこういう意味があって、この人にとっては…と話すのを聞いている方はつまらないだろうな、と思う。それにどうしても語ろうとする言葉には批判が入ってしまう。説話のようになってしまう。

そこで、たった今思いついたのが「対話による鑑賞」でした。これが僕がやりたい校内研修の比喩になるのではないか、と。

まずは実際に「対話による鑑賞」を職員でやってみて、みんなで持ち寄ることの楽しさ、そして、他者の発言(視点)によって自分の視点が広がることを体験してもらう。自分の考えを言える楽しさと他者から影響を受ける楽しさを、「対話による鑑賞」で味わうことができるのでは?

僕がやりたい校内研修と「対話による鑑賞」は相似形で、いちいち説明しなくたって僕が言いたいことが伝えられるのかもしれない。そう考えました。個々の「トリミング画像」を、みんなで持ち寄って合わせて、大きな全体像を共有する。そして、持ち寄り話し合うことで、個々の「トリミング」の範囲も解像度も、少しずつゆっくり変わっていく。さらに、子どもの学びと教師の学びが同型性であることで、自分の味わった体験を子どもにも同じように味合わせたい、となり、やがて教師が提供する授業に変化が生まれていくのではないだろうか。そういう校内研修がしたい。

何かが変わっていくというのは、変えてやる変えてやろうと息巻く形を超えた向こうで、はじめて動き出していくものなんじゃないか、と考え、今回はこのプログラムでいきます!と言ったら伝わるかな?

なお、トリミングと解像度という言葉は、石川晋さんの次の文献中の「トリミングと解像度をものさしにして、コロナ下の子どもたちを見つめ直したい」で使われている言葉です。