85 子どものパレットを見つめるように、数学授業がしたい。
美術授業でパレットを見つめるように、数学授業でも子どもの学びを見つめようとしているか?という問いかけを、山崎先生は僕に投げかけてくれました。
子どもの学びの見つめ方について、算数数学教育村でも話題にしていきたいのにな、と授業後の検討会で虚しい気持ちになることが、しばしばあります。
いま悩んでいることは、クラスで何かを生み出す授業(偶然何かが生まれるドラマ性を大事にした授業)がいいのか。それとも、個人個人の学びをどうつくるかが大事なのか。どっちなんだろう?と。
前者だと、参加者として「ただいるだけ」の子どももいるわけで、それで本当にいいのだろうか?と僕はよく悩んでいます。
問題解決の授業では「予想する」ことで子どもたちに問いを持たせてるわけですが、最初からその問いを解決できないことが自分で分かってしまっている子がいます。そういう子たちは、みんなが議論している様子を聞いているだけになるわけですが、それでいいのか?と疑問に思います。ただ聞いているだけの状態は、本当にその子にとって意味ある場になっているのだろうか、と。
こうした理由もあったここ最近は『学び合い』をやっている割合が多いです。
先日、中2直角三角形の合同条件1時間目をやったとき「長方形といえるか?」問題(直角が2箇所左上と右上、そして短い辺の長さだけがわかっていて3㎝)を扱いました。
ある子と、こんな話をしました。
「合同かどうか調べなさいという問題なのに、合同であることが前提となって角度が等しいことが言えるわけなんだから、角度が等しいと言えないでしょ。」
僕は、1対1でこういう話ができたことがとても楽しかった。
新しいアルバム制作をしている細美さんに、スタジオスタッフの女性がこういうアドバイスをしていた。
「重圧に打ち勝つためには自然が必要よ。」と。
僕にとっては『学び合い』のときの言葉は、自然体なんだよな。一斉授業のときは全然自然体じゃない。僕は、それが嫌なのかもしれない。