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109 教材研究をしないと授業が愉しめない

久しぶりに読書した。
この本の中で、次の言葉が印象的だった。
p.63
堀先生
「自分で一から教材研究をしてみる」ということ自体が、僕らが想定しているのとはまったく違った意味で捉えられてしまうんだよね、きっと。ネット上にある先行実践に普段より十倍くらいの数目を通すとか、そんなふうに捉えられてしまうのかもしれない。

p.71
宇野先生
国語を専門に学んでこなかった先生たちにとって、教材研究を愉しむ以前にどうやって教材研究をするかがあるのだと思います。

悔しいけれど、その通りだと思った。僕もまず先行実践にあたり、そこから楽しそうなものを選ぶ。実践をそのまま実施したときに起こりうる「うまくいかない因子」を取り除く手立てを考える。その程度だ。
この態度を改めなければ、授業づくりを愉しむことなんてできないんだろう。
国語や社会、美術はこういう教材研究から一歩踏み出すことは容易だろう。理科も探究理科で教科書を読めばわかるようなものではない「問いづくり」を実際にやってみれば、教材研究ができる。でも、数学は楽しそうな問題を探すくらいで、それは教材研究していると言えるのだろうか。新しい素材を探し、教材化しようとしないと教材研究だなんて言葉を使ってはいけないのではないだろうか。そんな思いに至った。特別支援教育では、この遊ぶ道具をやらせてみて、学習が成立しているかどうか、とかうまく動作・思考できない要因を考えている。それは教材研究と言って良いはずだ。でも、そういうことを数学の教材研究ではしていないので、堀先生の言うように、ネット上にある先行実践に普段より十倍くらいの数目を通す=教材研究で終わってしまっている。
教材研究をしなくても授業が成立する、ということは、数学は思考力や表現力を育てるだなんて謳っているものの、結局はスキルを教えているだけに過ぎないのではないだろうか。

つながり研究は、身近な事象から教材化し、子どもたちが楽しんでくれるかどうかを試している。そういう研究をこれから僕もしていかなきゃいけないのだろうな。全道規模の教育研究大会で最近感じている物足りなさは、教材研究なのだろうな。しかもチャレンジグな内容の。売れてる商品を模倣したような廉価版じゃなくて。