【九転十起】浅野総一郎が生きた時代を知る~逮捕事件など当時起きた出来事まとめ~
日本には数多くの実業家がいますが、その1人が浅野総一郎という人物です。一代で財閥を築き、京浜工場地帯を生み出した人物として有名ですが、具体的な活躍や功績についてあまり詳しくない方も多いでしょう。
そこで今回は浅野総一郎のことや生前に起きた逮捕などの事件についてまとめてみたので、ぜひ参考にしてみてください。
浅野総一郎について
浅野総一郎[画像:ウィキペディア]
浅野総一郎は、1848年3月10日に越中国射水郡藪田村(現・富山県氷見市)に誕生しました。今では工場夜景のスポットとしても有名な京浜工場地帯の生みの親で、コンクリート王(セメント王)とも評されている人物です。
家業は医師でしたが、幼い頃から商人になることを夢に見ていました。15歳の頃に初めて商売を始めますが、手を出した商売は全て失敗に終わります。さらに庄屋に入って婿入りまでして産物会社を起業しますが、それも倒産に終わります。24歳で多額の借金を抱え、庄屋も追い出されて東京へ上京します。
上京後、水に砂糖を入れたものを売る「冷やっこい屋」で商売を始め、稼ぎを得ます。その稼ぎで農家から処分してしまう竹の皮を仕入れて、お菓子などを包む容器の販売を始めました。
そのうちに薪や炭、石炭と事業の幅を広げていき、ガス局が処分に困っていたコークスやコールタールを燃料やコレラの消毒薬として再利用に成功しました。さらに、横浜で初めて公衆便所を設置します。そして人糞処理の権利を獲得し、肥料の販売を始めました。この頃から先駆けて資源リサイクルに取り組んだ人物として、廃品利用の天才と呼ばれるようになりました。
そして、浅野総一郎が28歳になった頃、浅野総一郎は第一国立銀行の頭取であった渋沢栄一、そして同郷の安田善次郎の2人と出会います。渋沢は浅野総一郎の将来性を感じ取って気に入り、協力者になります。浅野総一郎は東京を発展させるためには、建築の不燃化が求められ、そこにセメントが役立つという考えから、赤字休業が続く深川のセメント工場を買い取りました。
好条件で工場を買い取れたのは、渋沢の協力があったからです。このセメント工場は、のちに浅野セメント(現・太平洋セメント)の基礎となります。セメント事業の資金援助をお願いした相手が、安田でした。その後、浅野総一郎は渋沢と安田の3人で、それぞれ財産や才能を補完し合いながら多数の事業を展開していくことになります。
浅野総一郎の活躍・功績
若い頃は失敗続きの浅野総一郎でしたが、渋沢と安田との出会いが転機となります。浅野総一郎が48歳になった1896年、ずっと夢に見ていた海運業を始めるために、東洋汽船株式会社を創設しました。同年に欧米に視察へ行き、そこで港湾開発の発展に驚き、横浜に戻ると港湾の近代化を目指すようになりました。
工場と港湾を一体化させた、日本で最初の臨海工場地帯を東京から横浜にかけて海岸部に独力で建設することを決意します。この時も、安田が計画の価値を見出して支援に乗り出し、浅野財閥が急成長するきっかけとなりました。
京浜工業地帯↓
京浜工場地帯に鶴見線の前身となる鶴見臨海鉄道を建設します。実は、横浜市鶴見にある浅野駅は、浅野総一郎の苗字からとっています。さらに、終点である扇町駅がある扇町の地名は、浅野家の家紋にある扇にちなんで名付けられました。他にも、北九州市の小倉北区の埋め立て工事にも浅野総一郎は関わっており、そこでも浅野の地名を残しています。
鶴見臨港鉄道↓
JR鶴見線 浅野駅↓
他にも浅野総一郎は数々の活躍や功績を築いています。例えば、大倉喜八郎や渋沢栄一郎と共にサッポロビールを設立、戸畑鋳物と共同で自動車開発を行い、その後日産自動車の基礎を築き上げました。宮内省にはセメントを納め、そのセメントは皇居建設の基礎として使われています。息子の浅野泰治郎からは「事業が父の道楽」と述べられるほど、浅野総一郎は数々の新事業を手掛けていき、「事業王」とも呼ばれています。
逮捕者が続出した同時期の事件 蛮社の獄について
蛮社の獄は1839年5月、蘭学者の高野長英、渡辺崋山らを江戸時代の幕臣であった鳥居耀蔵により弾圧された事件です。この事件の発端の一つは、1837年に起きたモリソン号事件です。
モリソン号[画像:ウィキペディア]
モリソン号事件とは、マカオで保護された日本人漂流民を乗せていたアメリカの商船を日本側の砲台が、砲撃した事件になります。砲撃によりモリソン号の追い払いに成功しますが、それにより漂流者は帰還できなくなってしまいました。
政府は後からモリソン号は漂流者を送り届けにきたことと通商を求めていたことを初めて知ります。しかし、その時の報告でモリソン号がアメリカの商船ではなく、イギリス船と誤って報告されており、幕府はオランダ船による送還だけを認めました。
一方、高野長英らはモリソン号の来航は過去のことではなく、これから来航し、幕府は打ち払いする意向だと誤解します。そして、その意向に反対する書を出し、それは世間で反響を呼んだことで幕府は危機感を募らせます。その後、政府から命を受けた鳥居耀蔵らは崋山ら26人を逮捕し、幕府の政策を批判した罪などで投獄されることになりました。
蛮社の獄で逮捕された人たち
蛮社の獄ではたくさんの洋学者が逮捕されました。その一部の人物をご紹介しましょう。
■高野長英
高野長英[画像:ウィキペディア]
江戸時代後期の武士で画家であった人物です。モリソン号事件を知り、「慎機論」を書いて幕府を批判します。しかし、書はモリソン号の意見が明示されず、結論がでないまま幕府高官を批判する形で終わっています。
さらに自分は田原藩の年寄という立場から、匿名で書を発表できずに草稿のまま放置していました。ところが、蛮社の獄での家宅捜索の際に原稿が見つかり、断罪の根拠となって逮捕されます。
■高野長英
高野長英[画像:ウィキペディア]
江戸時代後期の医者であり蘭学者であった人物です。政府の対応を批判する意見をまとめた「戊戌夢物語」を匿名で執筆し、幕政批判で蛮社の獄にて逮捕されます。
もともと行動派で親分肌であったため、牢内にいた頃は服役者の治療を率先的に行い、劣悪な環境なども訴えていたと言います。
逮捕されてしまった知識人たちのその後
逮捕された人々は吟味中に拷問を受けて獄死した人も多いです。では、渡辺崋山と高野長英が逮捕されたその後はどうなったのでしょうか。
■渡辺崋山
渡辺崋山は逮捕後、田原で蟄居することになりました。蟄居とは、門扉や窓などが堅く閉じられた自室の一室で謹慎させるという刑罰です。門人福田半香らは崋山一家を救おうと、崋山の絵を売ります。
崋山は絵を描くことに専念しますが、その活動が罪人として身を慎まない行為だと批判をされてしまいます。藩主に災いが及ぶことを危惧し、崋山は遺書を残して49歳で切腹し、自害しました。
■高野長英
高野長英は終身刑が下され、伝馬町牢屋敷に収容されます。しかし、牢屋敷の火災が発生した際に脱獄し、硝酸で顔を焼いてまで人相を変えて逃亡生活を始めました。高野隆仙や鈴木春山に匿われながら洋書の翻訳などに準じ、江戸に戻った後は偽名を使い町医者を開業します。
1850年10月に潜伏を密告され、何人もの捕方に殴られながら縄をかけられ、半死半生状態であったこともあり護送中に絶命しました。
浅野総一郎の代表作品
浅野総一郎を題材にした作品がいくつかあり、その中で代表的な作品は次の2作です。
■九転十起の男―日本の近代をつくった浅野総一郎
浅野総一郎の波乱万丈の人生が描かれた書籍で、新田純子が書きました。この本をベースに2006年には「九転十起の男 -浅野総一郎の青春」という映画が公開されています。
■九転十起 事業の鬼・浅野総一郎
出町譲が書いた書籍です。こちらも浅野総一郎の生涯を描いた作品ですが、特に手掛けてきた事業について分かりやすく書かれています。
慕われ続けている浅野総一郎
浅野総一郎は数々の企業や事業の基盤を築いてきた人物であり、現在も慕われ続けています。生涯を描いた書籍や映画もあり、さらに鶴見や小倉には浅野総一郎にちなんだ駅名や地名も存在するほどです。
浅野学園(浅野中学校・浅野高等学校)の敷地内には、浅野総一郎の巨大銅像も建てられており、横浜を代表する歴史上の人物であることは間違いありません。
まとめ:京浜工場地帯の開発の他、多くの事業を成功させた浅野総一郎
始めは失敗の連続の浅野総一郎でしたが、2人の友であり協力者に出会えたことをきっかけに成功の道へと進みます。京浜工場地帯の生みの親としては有名ですが、サッポロビールや日産自動車とも深い関わりがあったことを知っている人は案外少ないのではないでしょうか。
また、浅野駅や一部の浅野という地名も浅野総一郎にちなんでつけられており、社会的に影響力の大きい人物であったことがうかがえます。浅野総一郎の生涯が詳しくわかる書籍や映画作品もあるので、興味がある人は作品を見てどんな人物なのか理解を深めてみるのも良いでしょう。
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