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ドイツの娯楽カードの説明書の解釈をややこしくしている幾つかの原因おさらい
(タイトル画像:ウィキペディアよりWien-1683(1686)-Allen.jpg)
これまで考えて来て、ドイツの娯楽カードの説明書を解釈するにあたって、長期間なのにあまり知られていない文化や、時代によって違う呼び方の地域、時代によって移り変わる何処の国の支配下なのかなど、現代とはまったく異なる国の認識などが混乱の大きな要因の1つとしてミルフィーユのようにいくつか重なっているようです。
ここで少しおさらい+α
重ね重ねお伝えしますがあくまでもこれは、個人的に可能性の1つとして調べている事で私の説が正しいと主張するものではありません。
ドイツの娯楽カードはロゼッタストーンの発見&解読が成功した以前に作られた占いカードで、一般的には国内でも国外でもほぼほぼ「古代エジプトのブームが起こった時代に作られたもので、本当に古代エジプトにつて正確な見識やヒエログリフの模写があるのかは不明」と言うのが一般的な通説です。
そこに個人的に斜め45度に思った事や解釈した事を調べてここに書いていっております。
願わくばですが、どなたか海外(特にローマ、イギリス、ドイツ、エジプトなど)の博物館や考古学者、大学等の各ルートをお持ちの方はここのサイトの内容に合っている部分はあるのか、間違えている部分は何処か確認頂いて、SNSや本など何かで発表頂ければ嬉しいです。
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リンクにある海外のサイトがブラウザー上で自動で日本語に翻訳されない方はこちらのリンクからウェブサイトをクリックし、出て来た枠にURLをペーストしてください。
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現代とは異なる認識のミルフィーユその1
ウィーンの宮廷占いが元になった「ドイツの娯楽カード」は
イギリス人が作ったものでタイトルにフランス語が・・・
「ドイツの娯楽カード」をイギリス人が作ったが、カードのタイトルの 「Les Amusements des Allemands」はフランス語。タイトルを訳すとドイ ツの娯楽で、元になった占いはウィーン宮廷で人気となった娯楽。その当時のウィーンはドイツ語を話しますが、国としてはローマの一部だった。
もう迷宮の入り口に立った気分です・・・。
現代とは異なる認識のミルフィーユその2
エジプトの古代文明でもない現在のイスラムでもない
狭間の946年もの異なる文化と聞きなれない「コプト語」
歴史上、ギリシャ・ローマ化したエジプト文明が946年近く続き、コンスタンティヌスの時代では、ローマはギリシャ語を話し、エジプトではギリシャ文字をとり入れた「コプト語」が使われ、コプト語のパピルスや写本が存在していて、日本ではほとんど耳にしませんが、その時代の書物が多くローマに回収された為(リンクの本に記載)ヒエログリフとは違う文字やヨーロッパにはその時代のエジプトらしくない文化もエジプトとして認識されていたようです。
そこから時代が移り変わる17世紀頃のヨーロッパでも、それらの写本などが各修道院や図書館で目にすることが出来、古代エジプトにあるインパクト強めの壁画やヒエログリフの様な個性的な図画ではない、まるでギリシャやローマのような正面を向いたまろやかなエジプト図画の方がエジプトと言う認識があった可能性があります。
今でこそピラミッドや神殿、遺跡などが観光でき、発掘されたものからレプリカなど彫像品が作られて、古代エジプトは多くの人の知る所ですが、多くの遺跡が発掘されるまではほぼほぼ砂に埋まっていたようです。
これをふまえた上で少し余談ですが・・・
そう言えばオカルト的なイメージの強いエッティラさんもよく「絵がエジプトっぽくないから実はちゃんとしたエジプトを知らなかった人なんじゃ・・・」と言うコメントも非常に多くあり、マニアックすぎてタロットとは一線を引かれてしまいがちですが、上記の事を踏まえると(起源説は横においたとして)、もしかしてあの時代のエッティラタロットの絵や世界観はヨーロッパに伝わって来た本や情報のエジプト文化「ローマンエジプト」そのものの世界観だったのかもしれません。
現代とは異なる認識のミルフィーユその3
17世紀どこがドイツでウィーンは何処の国???
ウィーンはドイツ語で、当時17世紀はドイツという国の認識ではなく(参考サイト)、ドイツ語を話す民族や地域をドイツと言いっていたので、説明書ではドイツの娯楽とも書かれている。
さらに古代ローマの時代、ウィーンはローマの一部で、ちょうどローマ帝国の北の境界にあたる位置にあり、ウィンドボナ(bona はケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれたのがウィーン地名の起源のようです。
読んでいる人がドイツなの?ウィーンなの??となりますが(汗)
まとめると、ローマ帝国で北にあるウインボナ地域のドイツ語を話す民族と言うことでしょうか。ドイツかウィーンかややこしいので、宮廷の人気の娯楽の話しを書く時はウィーンで、ドイツの娯楽カードの話しを書く時は、ドイツとする事にしました。
サイト内も、徐々に修正して行きます。
因みに下記が1683年のウィーンだそうで、
これを見ると当時の想像が膨らみます。↓
そしてドイツ統一 ドイツ帝国は,普仏戦争の最中,1871年1月,フランスのベルサイユ宮殿における皇帝戴冠によって誕生したそうです。
ここで1つ新しい疑問が湧いてきました。
ドイツの娯楽コーヒーカードの出版社の人はどのあたりのドイツに行ったのか・・・編集者がドイツの修道院を訪れた時代はまだドイツ帝国は誕生していません。
今までの事をふまえるとドイツ語を話す民族が住んでいればそこは「ドイツ」です・・・そしてここで又、確実な信憑性は不透明ですがチャットGBTを頼る事に・・・こうなってくるとナイトライダーのキットというよりもうドラえもん。
「17世紀 ドイツ語が使われた地域をすべて教えて下さい。」とあつかましい質問をしてみました。すると・・・結構な広範囲に;
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(ですます言葉を端折ります)
17世紀において、当時はドイツという統一国家が存在せず、神聖ローマ帝国の領土として様々な小国や公国、都市国家が存在していた。
以下に、17世紀にドイツ語が使われた地域を列挙。
1. 神聖ローマ帝国
広範な地域を支配していたがこの帝国の公用語の一つとしてドイツ語が使われていた。
2. ドイツ地方
現代のドイツ全土は、17世紀でもドイツ語が話されていた地域。
3. オーストリア
神聖ローマ帝国の一部であり、ドイツ語が主要な言語として使われていました。特にウィーンは当時からドイツ語文化の中心地の一つ。
4. スイス
独立した国家ではなく、神聖ローマ帝国の一部特にチューリッヒ、バーゼル、ベルンなどでドイツ語。
5. チェコ(ボヘミア王国)
チェコ語の他に特に都市部や上流階級の間でドイツ語が広く使われていた。
6. ポーランド領の一部(プロイセン)
プロイセンは当時、ポーランド・リトアニア共和国の一部でありながら、ドイツ語を話すプロテスタント系の住民が多く存在していた。
7. ネーデルラント(オランダとベルギー)
17世紀の初期には、ネーデルラント(現在のオランダとベルギー)は神聖ローマ帝国の一部で、北部ではオランダ語が主に使われたが、南部の特に現在のベルギーのフランドル地方などではドイツ語も使用されていた。
8. アルザス・ロレーヌ地方(フランス東部)
フランスに隣接する地域で、ドイツ語が広く話されていた。17世紀には神聖ローマ帝国の一部として、ドイツ語が主流の言語。
9. ルクセンブルク
当時、神聖ローマ帝国の一部でドイツ語圏。ルクセンブルク語も話されてたが、上流階級や行政ではドイツ語が使われていた。
10. スロベニア(カリンティア公国)
カリンティア公国も神聖ローマ帝国の一部で、スロベニア語も話されていたが、ドイツ語が支配的な言語だった。
このように、17世紀にドイツ語が使われた地域は、現代のドイツ語圏に加え、現在は別の国家となっている地域も含まれていた。
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との事です。
一番エジプトの本が直で存在するのは沢山エジプトから回収して来たローマです。でも当時のウィーン宮廷あたりもドイツ語を話しますが国としてはローマの一部。ドイツの娯楽カードの出版社の人はどこの国に旅行に行ったのかこのあたりの事はまた、後日テーマにしたいと思います。
まとめると
「ドイツの娯楽カード」をイギリス人が作ったが、カードのタイトルの 「Les Amusements des Allemands」はフランス語。タイトルを訳すと「ドイ ツの娯楽」で、元になった占いはウィーン宮廷で人気となった娯楽。
でもドイツ語を話すウィーンはローマの一部だった。
そんなローマはコンスタンティヌスの時代にはギリシャ語が話されており、ギリシャ文字をとり入れたコプト語が当時キリスト教が浸透して来たエジプトで主に使われていた。
1793年出版社の人がエジプトの本を見つけたドイツ旅行先修道院の「ドイツ」はドイツ語を話す地域や民族を指したので、実際何処に旅行に行ったか分からない。ましてやウィーン宮廷の娯楽が始まる以前にドイツに行っていて、そのドイツがドイツ語を話したウィーンとも限らない・・・
その時に修道院で見つけた本も古代語のヒエログリフだけでは無く、むしろキリスト教が浸透してきた時代のコプト語の本が修道院には多くあった可能性が高い。
もうここだけ聞いただけでも現在とは異なる当時の歴史上の相違がミルフィーユ状にカオス・・・何色ものマーブリングになった層が見えるかのようです。
このサイトを始めた頃は、
・コンスタンティヌスがエジプトに行ったあたりだけが疑問
だと思っていたのですが、ここに来てさらに
・ウィーン宮廷の人気の娯楽の中の数字の占いが、「ドイツの娯楽カード」の何処に反映されているのか私にはさっぱり分からない。
(数字の占いのプロの方は分るのかも???)
・「ドイツの娯楽カード」の出版社の人が当時ドイツ語を話すどこの地域に旅行に行ったのか、カードの説明書 こちらも(リンク先のページに記載)の文章からは見えてこない・・・
と疑問が3つに増えております(汗)
少し脳みそも疲れて来ましたので、今日はこの辺でとめたいと思います。