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オート発言からの脱却練習

会話をしていて、「今、自分、何て言ったっけ?」と思うことが誰しもあると思うが、それが頻繁に起こってるな、とふと気づいた。

会話の傍ら、意識の七割くらいは会話の内容とは別のことを考えていて、それでも会話になる程度の言葉は一応口から出てくる。口が意識から分離していて、勝手に喋っているような感覚だ。
上の空ながらも、それらしい言葉をオートで出力しているため、話を聞いていないとはあまり気付かれにくい。

たまにハッと我に返って、「ちゃんと話を聞かなきゃ」と姿勢を正すと、今度は逆に相手に意識を向けすぎてしまう。義務、あるいは戦場に向かうかのように会話に臨み、その結果肩ひじ張って消耗し、「やっぱり話半分に聞くほうが楽かも」と思うのだ。

そしてそのオート発言機能も、ある意味自分を守るために身につけたものだった。

昔から考えすぎたり相手の反応を気にしすぎる癖があって、ちょっと傷付くようなことがあるととことん落ち込んでいた。
だからこれ以上嫌なことを考えなくていいように、別のことを考える。会話で失敗して傷付かないために、最初から話半分で会話をする。それでなんとかやり過ごしてきた。

それで身につけたオート発言によって、気が楽になった面もあったが、意外なところで弊害が出てきた。

文章や小説を書くのが好きでいろいろ書いているが、なんだかしっくり来ない、と思うことが増えた。文章がぼんやりしていたり、書きたい気持ちはあるものの、うまく言葉にならなかったり。

そこで語彙力や知識を増やしたいと思い、これまで以上にいろいろな本を読むようになった。さまざまな人の豊かな表現に感動し、自分もやっぱり書きたい、とワクワクした気持ちになった。
それでもやはり、実際に筆を取ると、う~ん?となる。内側の感覚と生み出す言葉がうまく繋がらない、とでも言うべきか。

お気に入りの物語や詩などの作品は、読みながらその情景のイメージがありありと浮かび、登場人物の思いを一緒に体験でき、それが本当に楽しかった。
それらと自分の書く文章との違いは、その詳細なイメージが感じられるかの違いのように思えた。

オート発言モードになっているときの自分、いわゆる上の空状態の自分は、会話しながらも、どこか傍観者のような感覚だ。相手には失礼な話だが、テレビをぼーっと観ているのとあまり変わりない。
一応コメントはするけれど、自分には関係ない、といった状態。究極の他人事なのだ。

人と壁を作り、現実と距離を起き、想像の世界に閉じこもる。そうしていると、何気ない行動や会話、風景など、日常のちょっとしたことを五感で感じる感覚が鈍ってくる。
そんな状態じゃ、言葉もうまく出てこないし、豊かな文章を書きたいと思っても書けないだろう。自分を守るためとはいえ、意図的に感受性を鈍らせてきたのだから。

しかし、これからはちゃんと会話しよう、と思っても、今度は相手の言動や反応を気にしすぎるモードに突入してしまい、相手も自分も疲れてしまう。相手の目を見るとどうにも顔が固まるし、呼吸も浅くなる。
そうなるのを避けたくて、また上の空の鈍感モードに戻ってしまう。

あるとき、たまたま以下の記事を読んだ。

人に興味がなかったが、仕事でインタビュー記事作成に関わることになった結果、人の話を聞くのも案外面白いと思うようになってきた、といった内容だった。

この、「面白い」という言葉が自分のなかに妙に染み込んできた。
会話が面白い??バカみたいにポカンとしたあと、まるで世紀の大発見をしたかのようなひらめき感とともに、「本を読んで面白いと思うワクワク感を、会話にも向けられるかもしれない」と感じた。

自分にとっては目からウロコだった。
会話とは、にこやかに笑って、良いリアクションをして、空気が読めない人にならないように適度にコメントして……などとばかり考えていた。別に頭でそう思っていた訳ではなくて、無意識に染み込んだ「常識」として体がそう覚えていた。

それらはすべて、会話に対して「自分がどう行動するか」という視点しかなく、会話において相手が何か言えば、「その後自分がどう返答すれば相手が嫌な気持ちにならないか」というミッションに変換され、自分、自分、自分……とがんじがらめになっていた。

それを、本を読むときと同じようにワクワクできるとはどういうことか。
自分にがんじがらめになっていた視点を引き剥がし、あるいはすっかり忘れ、相手の話を純粋に楽しめるということだ。

普段なら「そうは言っても……」と、でもでもだってが入るところだが、今回は「なんだか本当に楽しめそうな気がしてきた」と、内側が喜びと楽しさで満たされていく感覚があった。
これも、たくさんの好きな本に出会えていたからこそ、ワクワクの感覚を本を通して体験できていたからこその気付きなのだろう。

それから、前よりも少し、会話時には人の話そのものに意識を向けられるようになり、恐怖よりも楽しさが上回るようになってきた。
好きなことにフォーカスしていれば、苦手なことも自然と底上げされる、といったことを聞いたことがあるが、何に意識を向けるか、というのは本当に大事なのだなということを実感した。

もともとの動機である、豊かな文章を書きたい、という思いのために、現実を五感で楽しむ余裕を持ちたい。
「面白い」という捉え方や感覚、けっこういいかもしれない。




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