つつじの庭
10月の末、祖母が亡くなった。
珍しく、というか残業のし過ぎで月残業時間が44.5時間になっていたために、追い出されるようにして早く退勤した金曜の夜、電車の中で母からのLINEを開いた。
『急ですが、先程、ばあちゃんが息を引き取りました』
頭が真っ白になるって、こういうことだと思った。
私から見て母の母にあたる祖母は、叔父(母の弟)と二人で他県に暮らしていた。コロナ禍になった2020年からの3年の間、高齢であることを考えて家に籠ったり、自身もコロナ禍に罹って入院している間に体力が落ち、ケア施設での寝たきり生活になってしまった。その入居施設のルールで他県に住む私たちは会うことが出来ず、電話も不可で、声を聞かせることすらほとんど出来ずにいた。
施設としての制限と、祖母の容態を考慮して、やっと、やっと3年ぶりに顔を合わせられたのが、まだ1週間も経っていない、先週の日曜のことだった。
寝たきりの祖母は、ふかふかの掛布団にほとんど埋もれていた。
15分間の面会時間で、話はしたものの、満足に会話できたとは言えない。酸素マスクをつけたままの祖母の発声は「うー」や「あー」というようなものがほとんどで、きちんと言語として聞き取ることができなかった。耳は聞こえており、思考もはっきりしているのだが、もう思うように舌や喉が動かないのだという。
酸素マスクがずれるから、天井を向いたまま顔を動かすことも儘ならず、そもそも痛みを堪えるかのように眼はぎゅっと閉じられている。声をかけながら布団と衣服の合間からわずかに見える手に手を重ねても、握り返されるどころか、ぴくりとした反応すら返ってこないことに不安になる。
それでも、「やっと会えたね」と言えばゆっくりと頷き、最後に「ばいばい」と言えば苦しそうに呻くから、その思いの強さに胸が詰まって、「また来るね」と返せば、その日一番の動きで何度も何度も首を縦に振ってくれた。そこから1週間後、つまり今週の土日にまた会いに行く予定だったのに。
「県をまたいで、高齢の人間に会いに行ける世の中に戻ってきた」という安心感で、張りつめていた覚悟をうっかり忘れたタイミングだった。
実の娘にあたる母はここ1ヶ月ほど、毎週木曜に会いに行くのを続けていて、それだって、「自力で唾が飲み込めなくなると喉を切らねばならず、そうすると話せなくなるからその前に」という理由でのことだった。明言されていない部分もあるのかもしれないし、いつそうなってもおかしくない段階であったことは確かだけれど、体調は安定していた。
諸々の調整があって、孫である私と姉に面会の順番が回ってきて。
私たちが会えた後のこれでは、あまりに実感してしまう。
大切だと思われていたこと。
耐えてくれていたこと。
待っててくれていたこと。
耳に挿したばかりのイヤホンで何を聞く気にもなれない。母は既に施設に向かっていて、私たちは残って続報を待つ状態だ。一旦家には帰らねばならない。文字情報だけで涙を流すのも悔しくて、息が乱れるのを一人堪えた。
今できること──今してもいいこと。
そうだ、明日、人と遊ぶ約束をしていた。
前々から都合を合わせていたが、辞退しなければ。
他の参加者の都合で一回リスケをした後の前日キャンセルとなるから、止むを得ない理由であることも伝えたほうがいいだろう。
身内に不幸があって、とメッセージを打つと、すぐに既読がついた。
『ご冥福をお祈りいたします』
まだ私がその姿を見ていないのに、実感していないのに祈らないでよ。
我儘なことを思いながら、画面から視線を外して、揺れる電車の床を見つめた。
定型文で泣くなんて。
次の月曜に告別式、火曜に荼毘を行うことになった。
月末かつ週明けに事前告知なく2日休むわけにもいかず、私と姉と父の社会人3人は月曜は午前出社し、諸々を片付け、調整し、家に戻ってから、出発した。
葬儀場に着き、親族が集まる中、葬儀の前にその顔を拝ませてもらって、素直に涙が出た。
肩に触れたらドライアイスの冷たさで、頬に触れたら冷たいながらも、もちっとした肌の厚みがあった。
親族みんなで生前のお召し物を被せてあげる時に泣いて、お坊さんが戒名の話をしてくださった時に泣いて、参列席の後ろで親族の一人が号泣するのが聞こえて泣いて、母が親族の人と「こんな時にしか会えなくて…」と謝っているのを見て泣いた。会場の供花を式場の人が切って「お花でいっぱいにしてあげてください」と配ってくれて、最後棺桶の中に手向ける時が一番泣いた。
享年89歳。
祖父の葬儀も務めてくださったお坊さんから、戒名の由来を聞く。
「紫」の字は、生前庭の花の手入れをしていたこと、その赤と紫のつつじから、「紫」が神様の七色の光のうち「慈悲」を表し故人に合うことから。
それから名前の一字と、祖父の戒名から同じ位置の同じ字を一つ。そんなん聞いたら泣いてしまう。
葬儀の後、宿に戻ってから荷物に入れておいた便箋で手紙を書いた。ノートのように27行も細く罫線が引かれた、お気に入りのB5便箋2枚にびっしりと。
あまり人に本音を言えない私だけれど、亡くなってしまったなら本人はもちろん、誰かに伝えることもどこか躊躇われて一人で抱えるしか無くなってしまう。
明日は荼毘だ。移動の前にもう一度棺桶を開けて顔を拝むことは出来そうだった。
一緒に燃やせば天に届くというこの時以外に機会はないと思って。
文字通り、命懸けで待っていてくれた、貴女の可愛い孫からの最後のわがままと称して思いの丈を。
ずるいよ。
もっと話したいことがあったよ。話せるもんだと思っちゃった。
夏休みや、冬休み毎に帰省すると、私と姉を見て「こっちがふーちゃん、こっちがはっちゃん。だろう?ばあちゃんは間違えないよ」と笑っていたこと。
書いているうちに、おこづかいをこっそりくれていたことも思い出したから、それも綴った。会って最初に親の前でポチ袋を受け取っているのに、帰り際にちょいちょいと私と姉を手招きして、もう一袋渡してくるのだ。ちょうど経済の授業で年金問題なんかを習っていたものだから、家計管理をしているだろう叔父に祖母が怒られるんじゃないかとひやひやしていた。
やはり隠していたのか、束ねられた郵便物の間から引っ張り出していた、そのおまけ(とも言えない額)のポチ袋も、次第に祖母が指さした棚を私たちで探ったり、最初から手元に隠し持っていたり、ここ数年はもう叔父の手からこっそり渡されていた。祖母自身は椅子から立ち上がることもなく。
祖父母宅には台所とは別に縁側の方に祖父専用の小さな冷蔵庫があって、その理由を知ってから密かに尊敬していること。
祖母が言うには、「目に入ると怒っちゃうから、見ないことにしているの」とのことだった。祖父は食事制限があるのに甘いものが好物で、時々食べていたという。子どもの好奇心でその小さな冷蔵庫の扉を開けては、祖父からなにかもらった記憶がある。やはり甘いジュースが常備されていたか、久しぶりの孫を喜ばせるためにこっそり買って隠していたのだろう。祖父も祖父で、そういう人だった。
冷蔵庫が2台ある理由を知った当時は、なんて心の広い許し方なんだろう、と純粋に驚いた。
今なら、そんな簡単なことじゃなかったんだろうと分かる。
私の母はたまに、親、つまり祖母に怒られた時の話をする。孫である私たちには想像がつかないけれど、昔は一人の母親として、ちゃんと怖かったのだろう。祖父ともきっと何度も衝突して、長年連れ添った諦めの境地での妥協なんだろう。祖母は美人だったから、怒ったらきっと迫力があっただろう。
祖母が美人だったというのは、居間に行けば分かる。
どんな高名な画家に頼んだのだろうというような果物とウイスキー瓶の静物画が壁にかかっていて、その横に笑顔の女性の上半身を納めた額縁がある。
誰の写真?とある時聞いたら、祖父が祖母を描いたものだというから本当にびっくりした。
聞いた話によれば、祖父はその腕で、戦時中兵士として敵地で捕虜になった際、敵兵士の似顔絵を描いて大層喜ばせ、強制労働の代わりに似顔絵を描き続けて生きて帰った人だった。
天国で祖父に会ったらよろしくね。
大好きだよ。
翌日、荼毘にふす間、庭の花を手入れしたり、家の裏まで踏み石を敷いたりしたのは祖母だったと改めて聞いた。ずっと祖父だと思っていた。ちなみに踏み石の3つに1つくらい、小さなタイルを貼ってスペードやハートの模様が形作られていて、それは祖父の仕業という認識で合っていた。
祖父から母へ、母から私たち姉妹へ、と思っていた手作業好きが、祖母からも伝わっていたと知って、姉と「血が濃いな~」と顔を見合わせた。
式の最中、お坊さんの特別に大きい香炉から絶え間なく煙が上がっていた。どれほどの抹香を焚くのだろう。
その煙に向かって、書道パフォーマンスの真新しい筆のような、はたまた歌舞伎のような、長い柄に立派な白房のついたものを振った。
2本のうち1本をわざと落とすと、大きな音がした。
お坊さんは色々な道具を使って色々な音を立てていた。独奏のようだった。
涙が溢れてやまないのに、この時間が過ぎれば仕事のこと、生活のことを考えなければならない。いつもと同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、スーパーで昼食を買い、1時間くらいは残業をして帰るのだろう。
その間、母は自宅で家事をこなしてくれている。
まだ会えると思っていた人にもう会えない悲しみとは別に、自分の後ろに続いてきた2本の道が暗闇に沈むのは、どんな気持ちなのだろう。ゆわりゆわりと立ち昇る煙に、まだそれを知らずに済む幸福を思った。
きっと私が死んで仏になっても、お坊さんの鳴らす色んな音や、お経の有難い意味は分からない。祖母も同じじゃないだろうか。
生きている人間が、区切りをつけて日常生活に戻るために、大仰な儀式は必要なんだと思った。死に引っ張られずに生を歩んでいけるように。
祖母の四十九日の間に、母の誕生日があった。「お祝い事だから今回は……」と言うものの、家の一切を任せてしまっている母に普段のお礼をしないのも忍びなく、姉と相談して小さめの品を贈ることにした。
私の好きなオブジェ作家の真鍮のペンレスト。
ペンレストとは、筆置きのことだ。箸置きのペンバージョン。ガラスペンや万年筆といった、ペン先にインクを付けて使う文具はテーブルにそのまま置くと汚れてしまうから、手を休めたい時はペン先を上げておく。
私と姉に続いて母も先日ガラスペンを入手したと知って、喜ぶんじゃないかと密かに脳内にメモしていた。
小さくも煌びやかなそれを、母は想像以上に「可愛い~!」と声を上げて喜んでくれ、お気に入りを集めてある戸棚にどう飾るかしばらく思案していた。
その作品名は、『花咲く庭で』。
リースのような花冠のような、楕円状に大小の花が咲き誇り、奥に庭師の家が配されている。
以前から私が愛用しているものの色違いで、なにも他意はない。
ないけれど、タイミングとモチーフが重なって、なんだか祖母を彷彿とさせるような。
母はただの偶然になにかを感じただろうか。
いや、必然だろうか。
文房具にときめくこと、推しの作家がいること、手仕事をするのも見るのも好きなこと。
血が一周巡るような。
四十九日の間、故人は生前の足跡を辿って回るのだという。それが終わると、天国へ旅立つ。
ばあちゃん。
どうか見守っていてね。
この血流れる身体で、貴女の待ってくれた命を抱えて、生きていくよ。