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【よむ議事録03】オープンミーティングvol.02 ざわつく金曜日
※こちらの記事は、筆者であるmvchomaya(マヤ)個人の視点からのイベントの振り返りとなっています。
※イベント全体の様子はこちらの記事をご参照ください。
【アーカイブ】オープンミーティングvol.2 数田祐一さんと語らう『哲学・思想Café』 の構想
〈プロローグ〉モヤったところを掘り下げる
正直、満足していません。
「こんな感じでこれからも続けよう♪」とは全然思えず、
めちゃくちゃモヤった。
その「モヤり」を逃すな、自分。
今回は、自身のリアルな感情に素直に向き合いながら整理し、時に心を鬼にして(!?)振り返り、今後につなげていきたい
と思います。
自戒を込めて書いておきたいのは、これは、誰か特定の個人を責めたり、参加者の方々と共に過ごした時間、共有した言葉そのものを否定する為のものでは決してありません。そして、何かしら一定の評価を下すものでもありません。
現に、集う人、過ごす時間それ自体が文字通りの一期一会であり、生き物の様であり、私にとっては寧ろ慈しむべきものです。
ただ、それは大前提の上で、語らいに終始するのではなく、トライ&エラーを繰り返しながら「共に語らいながらも、一人ひとりの言葉をいかに拓いていくか」を模索していくところこそがこの取り組みのミソだと捉えています。
なので、この度は、、、というか今後も、例え細やかであっても説明は無理でも「モヤモヤ」だったり「ザワザワ」だったり、そう言った直感的「違和感」や「ズレ」みたいなものを大切にし、ヤケドしない程度に焦点を当て(笑)考察のヒントにしていきたいと思っています。
参加者からの声
アーカイブにも書きましたが、参加者からは場を楽しんでくださる感想の中こんな声も耳にしました
「もう少し掘り下げてみたかった」
「一人一人の意見をも少し聞いてみたかった」
期待も込めてくださった感想だと半ば勝手に解釈し受け取っています。
一方で、確かに振り返ってみると、当日は発言権がうまく回らず一人の人が多く話してしまったり、質問に対して質問された側が答える前に別の方が独自の見解を述べたり、話が脱線して本線に戻らないまま次の問いに行ったりといった場面が少なくありませんでした。
それでも、参加者から問いは投げられ各々の言葉を通して考えを共有していきました。
モヤッたところはこんなところ
我が強くてごめんなさい、本当に。(先に謝っておく)
私のモヤモヤも言わせてください。聴いてやってください。
モヤッたところはこんなところ
一人一人の声を抽出できなかった。つまり、対話を通して考えを深めたり、展開していったとは言いづらい流れになった
例えば、前述の通り一人の人が長く話してしまった。そしてそれを誰も止めることができなかった。
参加者の声にもありましたが、私自身も他の参加者の方の問答する時間を奪ってしまっているのでは、という申し訳なさ悔しさに駆られました。
なんでモヤったのだろう
それは、私の思い描く「対話の場」と遠いものであったから。
むしろ真逆に感じてしまいました。
場がしらけたとか、うまく進行できなかったとかそう言った表層の空気や流れの話ではなく、心のどこかで過敏に反応している自分がいます。
これは何か違う、と警鐘がなる。
ざわつく。
どういうことか。
引っかかってしまったのには訳があります。
振り返りを進める中で、私たちがELCA及び対話の取り組みを始めるに至る動機と、この度の「モヤり」が根底で繋がっているからではないかと気がつきました。
与えられたいのは『正解』ではなく『問い』
モヤってしまった理由はズバリ「自分で考える」つまり「自分で哲学する」機会を奪われたように感じてしまったからではないか、と振り返り思います。
与えられた問いを自他の言葉を通して味わい咀嚼する。
そんな時を待たずして正解を与えられてしまった。
正解は一つではないし、すぐには出会えないかもしれない。
だけれども、その決して決まりきった方程式では導き出せない、ある意味、歯切れ悪くグズグズと問答する場こそがやりたいのです。面白がりたいのです。
思い切って言うと、正解はいらない。むしろ邪魔なのです。
ではなぜ「自ら問い、考え、言葉にし、また問い考える場」が必要なのでしょうか。
それは、もうこれ以上他人に正解を押し付けられることにうんざりしているから、、、。
というよりも、そうやって、考えることから自分を無意識にも遠ざけ、楽な楽な方に進み、その考えられない環境すら安易に周りの環境のせいにしてしまう自分自身から抜け出したいからです。
そして、そうやって自分自身の言葉を見失っていくことが悲しい。何も生み出せなくなることが寂しい。心の奥底で眠ってしまっている自分自身を呼び覚ましたい。自分の声を言葉を聴きたいのです。
この「自分」というのは「あなた」とも言えるかもしれません。
だから私は違和感を口にしたい。
騒つく心に耳をすませたい。
うまく説明できなくてもいいんです!
私の中でうずいているのは、他者への違和感ではなくて私自身の傷なのかもしれません。(ちょっとキザに言ってみた)
これもまた、個人のこだわりにすぎないのですが。
哲学が哲学の邪魔をする!?
哲学が哲学の邪魔をする。
哲学自慢や哲学することにそのものに酔っていないか。
言葉のトラップ。
これまでの経験や哲学をかなぐり捨てることが必要なのかもしれません。
どうすればよかったのかよ
ゆるくあるためのゆるくなさ
「なんでもいい」と「どうでもいい」
は違う。
なんでもいいは、相手に委ねる、あなたの発言や選択の自由を尊重する姿勢だとしたら。
どうでもいいはむしろ放置、ネグレクト、無関心の感覚に近いのか。
知ったこっちゃねぇ、って感じがする。
もちろん、言い方や相手との関係性にもよりますが。
どうでもいいのではなくて、「なんでもいい」場にするには?
私は改めてここに他者同士が集う意味について考えました。
そして改めて、自由に対話をする為にこそ、ルールが必要なのかも!と思い至りました。
哲学対話との対比
オープンミーティングは哲学対話とは銘打っていません。
でもこれまで実践してきた哲学対話のルールがある意味や必要性を改めて痛感した時間にもなりました。
と言うことで私なりに「哲学対話」と対比しながら考えてみたいと思います。
①テーマが対話の糸になってくれる→問いが深められる
フリートークだと良くも悪くもテーマが固定されていないぶん、糸の切れたタコのように話題が自由に浮遊してしまいがち。深堀りする前に、話の表層だけを辿って次の話題に飛んでいってしまう。哲学対話ではテーマが決まっているので話が逸れそうになっても、また、テーマに立ち返り、何度も反芻するように、もしくは、一本のポールを軸に様々な視点からテーマについて掘り下げることになります。
②交通整理役ファシリテーターの存在→安心して発言できる
哲学対話では、ファシリテーター(進行役)という存在がいます。
そのファシリテーターが発言権をいろんな人に割り振ってくれたり、話が本筋から外れそうになったときにテーマに引き戻してくれたりと、問いを整理してくれたり、言わば対話の交通整理役を担ってくれます。
それって一見「誰目線やねん!?」「何様やねん」(何故か関西弁)と突っ込まれそうですが、その、誰ものでも何者でもない役がいてくれることが肝なのかな、と改めて痛感。
既存の属性や関係性、立場に左右されない透明人間な人がいることで互いの対等が保たれる。
また、役割だけでなくルールでも挙手制にしたり コミュニティボール(発言者が誰か分かるようにぬいぐるみやボールなどを発言者に渡すバトンのようなアイテム)などを用いて、発言している人を明確にすることも大切。
③他者の言葉引用禁止!?→自分の言葉で話さざるを得ない
そして互いに対等な立場で対話を進める為のルールもあります。例えば、相手の発言に耳を傾ける。反対意見はありだけれども、相手を否定したり傷つけるような発言はしない。そして偉い人の話、言葉を引用しない。これは、自分の体験や考えに基づいた言葉で語らうことが大切で、引用そのものがいけない訳ではないが、だからと言ってそれを鵜呑みにしない。
哲学対話のルールはとてもシンプルではあるけれど、それらを尊守することで、自他を尊重し合いながら、互いの考えを交換し問いを深めるのだと実感しました。
事前に共有できること
どんな場にしたいか、どんな対話にしたいかを暗黙の了解で進めるのではなく、改めて、ルールやマナーを可視化し、参加者同士で共有することが大切だなと思いました。
一方で、既存の概念やルールに囚われすぎないことも大事!
先日7月19日(金)に参加した哲学カフェ@福山平成大学附属図書館、では、ルールの可変性「ルールは変えてもいい!」や「与えられたルールではなく当事者自身で作り意識するルールの大切さ」など気づきを与えて頂き、今後ELCAの実践の場でも活かしていきたいなと思いました!
ここまで読んで頂きありがとうございました!
mvchomaya