梅雨の憂鬱な世界へようこそ。「ながめ」で日本流のマイタイムを味わおう
梅雨に感じる憂鬱は今も昔も同じ
こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。
梅雨の季節になりました。
梅雨の時期、皆さんはどんな気分になりますか?
多くの方は、「気が滅入る」「憂鬱だな」と感じたことがあるのではないでしょうか。
その感覚は、古典の時代の人たちも同じでした。
昔の人は、この時期の長雨を「五月雨(さみだれ)」と呼んでいました。
なぜ五月の雨なのかというと、梅雨のシーズンは旧暦では五月に相当するからです。
ちなみに、梅雨(つゆ)という名称は、「露(つゆ)」から来ているという説、物が腐りやすい時期なので「潰ゆ(ついゆ/つぶれる・崩れるという意味)」から来ているという説、梅が黄色く熟す時期だから梅雨と呼ぶという説など、いくつかの説があります。
梅雨=五月雨と捉えて良いのですが、梅雨は五月雨の降る季節のことを表す傾向にあり、五月雨は雨そのものを指すことが多いです。
和歌や物語などの古典作品では、梅雨よりも五月雨という表現の方がよく出てきます。
そして、五月雨は多くの和歌に詠まれています。
現代の私たちが、梅雨のじめじめとした長雨に気分の落ち込みを感じるのと同様に、昔の人たちも、五月雨に対して鬱々とした気持ちを抱いていました。
昔は、食材の保存技術が現代ほど進んでいなかったので、カビを生じさせ、物を腐らせる五月雨は、今よりもよっぽど人々を陰鬱な気持ちにさせていたことでしょう。
そのせいか、五月雨を題材にした和歌では、悩みや晴れない心が詠まれるようになりました。
例えばこんな和歌があります。
五月雨の 空もとどろに ほととぎす
何を憂しとか 夜ただ鳴くらむ
(五月雨の空に鳴り響くほととぎすの声。何がつらいと言って夜じゅう鳴いているのだろう。)
五月雨に鳴くほととぎすの声を「つらい」と感じるのは、当時の一般的な価値観だったようです。
でも本当につらいと感じているのは、ほととぎすではなく、歌を詠んだ人間だったりするわけです。
この人は、五月雨の降る寂しい夜に、一体何を想っていたのでしょうか。
陰気な日本の雨、陽気な西洋の雨
こんな記事を読みました。
雨が音楽の短調、長調に例えられています。
確かに、五月雨のじっとりとした湿度、冬の雨の悲しくなるような冷たさなど、日本の雨からは短調っぽい陰の要素を強く感じます。
日本の雨を短調と表現することに「なるほどなぁ」と納得しつつ、西洋の歌は本当に明るいのか疑問が湧きました。
そこで、西洋の雨の歌を思い出そうとして、初めにパッと頭に浮かんだのはミュージカル映画『雨に唄えば』のテーマソングでした。
このポスターからお分かりのように、登場人物たちが雨の中、傘を差しつつ笑顔で歌い踊っています。
その表情のなんて明るいこと!
『雨に唄えば』の歌い出しは、「雨に唄えば 弾む心 よみがえる幸せ」です。
曲も明るい調子で、雨の中で歌っているとは思えない陽気さがあります。
この曲だけで、西洋の雨の歌=明るいと言い切ることができませんが、雨の中でこんなに楽しそうに振る舞う様子は、日本の歌にはあまり見られない気がしました。
一方、日本の雨の歌でまず浮かんだのは八代亜紀さんの『雨の慕情』です。歌詞の一部を抜粋します。
「憎い 恋しい 憎い 恋しい
めぐりめぐって 今はこいしい
雨々ふれふれ もっとふれ
私のいい人 つれて来い」
『雨に唄えば』で幸せがよみがえると歌っているのに対して、こちらでは憎い、恋しいと情念たっぷりに歌っています。
日本人に馴染みあるのは、やっぱり『雨に唄えば』よりもこういう演歌の世界だなぁとしみじみ思いました。
「Uta-Net」という歌詞検索サイトで、「雨 楽しい」と検索したところ692件だったのに対して、「雨 悲しい」は1882件もありました。
日本の歌では、やはり雨は楽しさよりも悲しみと結びつきやすい模様です。
なお、「雨 楽しい」は692件ありましたが、検索では「雨で楽しい思い出が消えてしまった」のようなネガティブな歌詞も拾ってしまうので、「雨が楽しい」という陽気な歌の件数は、もっと少なくなります。
日本の雨は暗くて陰鬱。
その中でも特に五月雨は、鬱々とした想いが和歌で詠まれてきました。
現代人も、歌詞において雨と悲しいを結びつけていることから、今も昔も、雨の日に抱く感情は共通していることが分かりますね。
雨をヒュッゲの時間に使おう
でも、ふと思うのです。
私たちは、雨の日を鬱々と過ごしながらも、案外、好んでその状態にいるのではないかと。
私は、何か落ち込んだり、悲しいことがあったりしたときは、一人きりになってその感情に浸りたいタイプです。
「騒いで楽しんで悩みを吹き飛ばしちゃえ!」という思考にはなりません。
国によっては、落ち込んだ時こそ元気に明るく過ごすという文化もあるでしょう。しかし、日本の人たちは、悲しみに浸ったり、物思いにふけったりする方が得意な気がします。
それは古典の時代から続く日本人の特徴、日本の文化なのではないかと思うのです。
和歌では長雨を「ながめ」と読み、「眺め」という言葉を連想させる仕掛けになっています。
「眺め」は、ぼんやりと物思いに沈むことを意味する言葉です。
つまり、昔の人たちは長い雨の時期に、雨を眺めながら物思いにふけっていたのです。
あれ?
私は気づきました。
物思いにふけるという行為は、エラマプロジェクトでお伝えしているマイタイムや自己対話、ヒュッゲのことなんじゃないかと。
自分のために時間を使う、フィンランドの人たちの習慣「マイタイム」。
仕事や家族のための時間ではない、自分のための時間を大切にして、読書をしたり、カフェに行ったり、散歩をしたりして過ごす。
そうした中で自分と対話し、自分と向き合う。
そんなマイタイムの習慣が、フィンランドの人たちにとって豊かで幸せな生き方のエッセンスになっています。
一方、日本人が昔からやっていた、雨を眺めながら物思いにふける習慣って、自分のために一人で行う活動ですよね?
それってマイタイムに似ていませんか?
私は「ながめ」の文化は日本流のマイタイムだと感じました。
ただし、「ながめ」に伴う感情は、憂鬱や晴れない心といったネガティブ感情の可能性が大きいですが……。
もし私たちが「ながめ」をやってみたら、ネガティブな感情が浮かんできて、フィンランドのマイタイムのような豊かな時間は過ごせないかもしれません。
でも、その鬱々とした気持ちを無理に明るくする必要はないように思います。だって、千年以上昔から、私たちは雨を眺めて鬱々としてきたのですから。
むしろ、その鬱々を味わいきってみることこそ、良い梅雨の過ごし方なのではないでしょうか。
そして「ながめ」を味わいきったなら、梅雨が去った後、私たちの心には何かしらが生まれているような気がします。
それは豊かで幸せな生き方のタネかもしれません。
というわけで、私は憂鬱な気持ちも含めて、梅雨を楽しんでみようと思います。
皆さんも、今年の梅雨は「ながめ」のマイタイムを試してみてはいかがでしょうか。
Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)