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男女間の話はタブーとされている


男性性と女性性


 カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)は、スイスの著名な精神分析学者であり、心理学の分野で非常に影響力のある人物です。ユングは、以下の概念が個人の心の成長とバランスを取るために重要であると考えました。アニマとアニムスの理解は自己の内面をより深く理解し、調和を取るための鍵となります。

アニマ (Anima)
定義:
アニマは男性の無意識に存在する女性的な側面を表します。ユングは、アニマが男性の感情面や直感、創造性を象徴すると考えました。

発展:
アニマは母親や他の重要な女性との関係によって形成され、男性が自分の感情や内面を理解する助けとなります。

例:
夢やファンタジーの中で現れる女性の姿として、アニマは男性に自身の感情的な成長を促す役割を果たします。

アニムス (Animus)
定義:
アニムスは女性の無意識に存在する男性的な側面を表します。ユングは、アニムスが女性の理性、論理、意思を象徴すると考えました。

発展:
アニムスは父親や他の重要な男性との関係によって形成され、女性が自分の強さや理性的な思考を理解する助けとなります。

例:
夢やファンタジーの中で現れる男性の姿として、アニムスは女性に自身の意志や理性的な側面を発展させる役割を果たします。

ゼロサムゲーム


  • 一方の勝利が他方の敗北を意味する。

  • 利益と損失がバランスしている。

  • すべての参加者が利益を得る、または損失を分かち合うことが可能。

 意外かと思うかもしれませんが男性は比較的差別を嫌う、つまりこの人が嫌いだから攻撃しようというのにたいして懐疑的。ただし攻撃していいと思うと攻撃するのであまり男女差は無い。

 女性が男性に相談するとき、男性はその弱っている女性を守ろうとします。交友関係も争うよりは認め合いたい、ただし勝ち負けにたいしては固持する。

 自身はこれだけの被害を受けたのだと明確にする場合に、数値に対して謝罪しろとする。例えば男女で付き合っている場合には互いに平等さを求め、別れる際にはあなたのせいでここまで損害を受けた、だから謝罪しろとする。そうして金銭を支払えとする。

 平等さを求める、つまり、利益と損失のバランスを取ろうとする。

 勿論、これは傾向であり、全てという訳ではありません。

不快を取り除きたい


 女性は弱者にたいして排除したいと願う。

 そこにゲームのような勝ち負けという概念よりも、その不快さをいかに排除するかを常に考え、不快なものを徹底して潰そうとする。

 女性差別やジェンダー差別にたいして行動するときも、私たちがいかによりよく暮らせるかという話に帰着し、安心して暮らせるかの主張が常に入り込む。

 女性は「こんな不快な思いをした」という話に同情して欲しい。

 男女で付き合ったときにはいかに自分が不快な思いをせずにいるかの尺度を持っていて、別れるときには私はこんな不快な思いをしたんだとして謝罪や金銭を求める。

 不快な部分が最も害悪であるから、利益と損失のバランスは重視しません。つまり極端な要求が現れる、それは一切関わりたくないとか、全てを奪いたい、といったもの。

 勿論これも傾向です、全てに当てはめることはできません。

排除的戦争とゲーム的戦争


 女性がトップに立つとバランスを取りながら安定を目指し、邪魔な者を排除する働きを重視するから争いが生まれる。男性がトップに立つと平等さを重視しながら領土や資源、数値を求めるので争いが生まれる。

 前者は発展が望めないが安定する、後者は争いが絶えないが発展する。

 これは女性性、男性性というもの、ここに書いているのはその要素の話に近いですが、比較的女性に多い傾向と男性に多い傾向になります。全てという意味ではありません。

平等という概念


 男性的観点の平等というのは社会保障と実力主義という話がついて回る。女性的観点なら不安分子が存在しない状況を自身に置き換えて平等であるとする。

 これも男女間の傾向です。

男女間の差は少ない


 非常に似ていて、似ていない部分が微量だからこそ大きく食い違う。

数値を追う姿と人の為の姿


 ある市で人口を増やすための政策を行ったときには市長は忌み嫌われ、殺害予告までされました。このことから正しさよりもわかりやすさを求められ、新しいことよりも留まろうとする力が強いことがわかります。

 つまり失敗を悪としながらも無駄を排除する働きを評価される。

 数値を追う姿は美徳感が強く、他者の為に行う行動は悪であるとされやすいというのがある。いかなることをしてでも数値を手に入れれば美徳であるというのは、カイジが国民的漫画となった背景にも繋がりがあります。

 凡人以下が追い詰められて天才になるという流れ。

 これについてしっくりこないのは本質的な部分を排除してしまうので妙に感じるから。実際には人は見た目の数値に弱いですから、人の為にやって考えた策は見た目に反するので愚策と思い込みやすい。それよりも数値が高いとそれだけ評価的に高くなるのが多数派としてこの考えが自然となる。

 しかし、全体としては凡人は秀才を天才だと感じ天才(理解できないもの)を嫌い、秀才は凡人(平凡)を馬鹿だと思っていて天才(妙なもの、才能)に興味がある。天才は没頭したいから凡人(環境)と仲良くなりたいと思っていて秀才(数値)に部分的に興味があっても本質的に興味がない。

 天才は少数であり凡人が一番多いので、全体として人は数値を認めやすいことからこの考えが生まれています。

▲印象|ekkusii


▲印象と分断で人の思考が形成されている|ekkusii

 何を言ったのかではなく誰が言ったのかが重要であり、数値を持った人の意見が正しいというのがまず前提にあって、政治の世界にも芸能人やyoutuberやSNSを利用した有名人である必要が出てきています。それがダークヒーローであっても問題ない訳です。

 そもそもが正しいと上塗りしている人が不正を働かない保証はどこにもありませんし、政治に興味がある時点で大体がそれなりの考えは皆持っています。数値を持っているというのはそこにしっかりとしたものが確立されているものでもあります。

 かといって自らそこを皆が求めているのにも関わらず、微量などうでもいい見た目におけるすぐわかる不正にたいしては目ざとい訳です。わかりにくい不正はそれで構わないと思っている。

 ただこれもわかりやすく明確にされていくと排除する動きになる。


最後に……。

 男女間の話は比較的タブーとされやすいですよね。

 理由は簡単でどちらかの主張がどちらかを否定する為です。

 目立った主張は偏りが発生するし、第三者からすればその中央値をみて明らかに偏りを見せた場合に「おかしい主張」として認知されます。

 平等さに著しく偏りがあればおかしい主張であるし、不快であるというのが著しく偏りがあればおかしい主張である訳です。

 ジェンダー達が自由を求めて全裸でそこら中で同性同士でSEXをするという活動がありました。不快だからといってパーカーを着ている中年男性を否定したり、障碍者をネットミームに使ったりと、見た目至上主義というものが通常になり、不快なものを排除するというものもありますね。

 その偏りは一種のわかりやすさでもある為に収集がつかない場面も増えた訳です。

 よってこの問題を語ると必ず差別の話に入ってしまう。

▲わからない事は語る必要がない|ekkusii


歴代の哲学者は女性蔑視をしている|ekkusii

 ただ哲学というのはわからないことを明確にしたいというのがあるので、どうしたってこの話は様々な哲学者がテーマとして持ってきやすい一面があります。

 脳科学的な話をしても生物学的な話をしても明確にこれだと納得できなければ意味がありません。

 どちらも譲るものが必要で、どちらも似ているので終わりがない訳です。だからこそ考える楽しさというのが存在するというものです。

 悩みというのは悩んでいる状態が一番楽しいのであって、明確になると途端につまらなくなる、だからこそ男女間の議論が絶えないのですがあなたはどう考えますか?

以上……。


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