![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172846528/rectangle_large_type_2_dcaf7ac2c99a468217586fe8c106d2ba.png?width=1200)
小説「実在人間、架空人間 完結編」第一話
私はガクに疑惑を向けていた。
このゲームの序盤に違和感を感じなかった部分に今更ながら考えさせられる。
島津学という存在が架空人間であった場合に、今ある情報を集めていくと矛盾が生じるというのが違和感の始まりだった。
ガクは一人称がブレる傾向があって、俺と言ってみたり僕と言ってみたりする。これに関してはハクと杉原が言い争っていた最中に銃が不必要であるとしたガク、その時のガクの一人称は僕であり、それ以外は俺で通していた。
これは僕という非力な存在のアピールのように感じられ、それが演技であると考えられる訳だ。
その時には大きな疑惑には繋がらなかったが、ガクの目立つ行動が増えてきては結果として判別であると判明する。これは自称判別であると公言したのが始まりで、誰も判別であると名乗りでなかったことからガクは実在側であると決定づけられた。
だからこそおかしいと私は思った。
私は、そこからガクは判別と名乗り出ても問題ないと捉えていたとも考えられると仮定してから、いよいよガクは架空側であると考えて自然となっていった。
それが成立する条件はハクが判別であると仮定すれば成立する。
ハクはこのゲームを理解しようとせずに拒否し続け、そうして関わりを断ちながら自身の世界に逃げ込んだ。
杉原を殺したハクはもはやゲームに参加する気力もない。
そうなったときにガクに対して元の世界の記憶と経験だけを頼りに、ガクをかばう恐れがあり、それを見越しているからこそガクは判別できると皆の前でアピールしたのではないか、そう考えられた。
ここに存在する架空人間は実在人間をベースにしてつくられていて、人と同様にミスは犯すだろうし、あくまで知能レベルだけが高いというのがこの世界のルールだ。
つまり、綻びは存在する。
知能というのはグラデーションであって、知識は理の理解に近づけるが持っている知能に限界があって、その知識を理解できない範囲が存在する。
数式を全く知らないが知能が高ければそこに知識を入れれば理解はできるようになる。その一方で、知能が低ければそこに知識を入れても理解はできない。
ただ知能というのは一概に理だけではなく、左脳の使い方も右脳の使い方も同じく同等に知能である。ひょっとすれば知識としてただ覚えれないだけ、つまり興味がないだけであると定義することもできる。
理解する能力と創造性は同じ知能であるはずだが、そこに興味やあらゆる体験と感情が入り混じる、それらがこのゲームにおける知能としてのカテゴリに入っているのかという疑問がある。
恐らくはそれを数値化することは無駄である。
数値化するというのは必ず対義が必要であって、数値を稼いでいる相手との差によって生まれることからそれを欲望と捉えることが通常であるので、そこに対して知能レベルが高いと断定できない部分がある。
よって左脳的な分野が知能であるとした方が正確に測れる。
左脳的な知能そのものに関していえば、ゲームという観点からすれば正解にたどり着きやすい。だからこそ我々実在側は劣勢の状況である訳だが、大きく差が開ける訳でも無いことからも、ガクが一人称を変えていたのは意図せず発した言葉であると考えて良い。
ふたつの自我が混じってひとつになっている、それはひとつの自我がもうひとつの自我に俯瞰的に入り込み、それがひとつの自我になるということ。
このゲームの開幕でフィクテイシャスにも自我があったように、あれがそのままガクに入り込んだとすれば、ガクにたいする俯瞰的立場からみる評価は『僕』として認識されるだろう。
ガクはあまりにも幼い、だからこそフィクテイシャスは僕という俯瞰的自我に入る。
入り込むがガクの自我は俺という自意識が存在する。自意識と俯瞰的自我が重なったときに僕と俺が共存する、であるから一人称がブレたと私は考えている。
ガクの不確定な知能とフィクテイシャスの左脳的な知能が混じった。
だからこそ不安定な一人称になっている、そう考えられる。
タイムリープ。
親殺しパラドックスから数学上では過去にタイムリープすることは否定される。例えば過去に戻って自身の両親を殺せば未来の自分は存在しないし、さらに遡って祖父母を殺しても両親すら存在しないことになる。
しかし、量子の世界ではそこにあるというのは不確定で混ざっている。
二重スリット実験。
ふたつあるスリットに電子を飛ばして、スリットの先にあるスクリーンに電子がどう当たるのかを観測した。それは観測を行わないなら干渉縞が発生し、観測すればスリットの先に電子が当たって干渉縞が発生しない結果となっている。
ただ、目でみるという行為は光がまずあって、その光が物体に当たってその跳ね返った光を目でみてその物体をみることができる。
観測機も概ねこの要素から観測している。
これらが干渉しているから結果が変わっているとするならば、スリットの片方を塞いでスリットをひとつだけにし、観測機を使用しない、その条件下で電子を飛ばすとどうなるかと検証したとすれば、そこに干渉縞は現れない。
このことからも電子は観測していない間もただひとつの経路をたどっているとはならず、電子はスリットをふたつ同時に通ることができる、といえる訳だ。
粒子の世界のスピン。
+1/2や-1/2のような離散的な値、回転という概念で説明するのは難しく、内在的な回転運動のように振る舞うが、通常の日常で発生する回転とは異なる。
通常考えられる回転は1回転で元に戻るが、スピン1/2フェルミオンである電子、陽子、中性子は、2回転して元と同じになる。360度回転しただけでは元の状態には戻らず、720度回転して初めて元の状態になる。
スピン3/2のフェルミオンはさらに異なる性質を持つが、単純に回転数の増加ということになるのではなく、スピン状態の複雑さが増す。
私たち人間がみている世界はほんの一部分に過ぎず、ミクロの世界ではもっと複雑に入り組んでいる。
二重スリット実験からみえる電子はふたつのスリットを通過して混ざっているから、互いに干渉して干渉縞が現れるということの観点から、複数の選択肢は常に混ざっていると仮定できる。
過去にタイムリープしている自分と未来の自分は混ざっていて、過去に戻らないのなら私たち人間が認識しやすい状態に入り、そうでない場合は混ざっているので両方が同時に存在し、親殺しパラドックスは発生しないと定義することもできる。
そもそもが生物は量子や粒子が集まりやすいから集まっているだけであって、ミクロの世界では分離している。
ただ例えば、部屋の中の空気が分離して一部分が真空になることは自然に発生することはなく、纏まりやすいからそこに纏まっていて、いつかは真空になる瞬間はあるかもしれないが、それは纏まりにくさが発生してようやく大きくそうなる。
今のガクはフィクテイシャスと混ざっていて、その島津学という実在する人間と実在しないものの両方が纏まりやすい状態で纏まっている。
ガクは架空人間である可能性が極めて高い。