密集すると死滅する
ものの流れは血流と同じで同文化は同文化同士相関関係にあります。
動画コンテンツ
様々に流行が入れ替わり、何かが始まれば何かが終わり、そのシェアの席は限られていて局地的に集中したり分散したりしますが、その流れ方によって再度流行が戻ってきたりします。
ニコニコ動画のシェアがyoutubeに奪われ、ニコ動で流行したコンテンツを面白いと思っていた世代がyoutubeに動画をアップロードし、youtubeを見ているニコ動を知らない世代が見る。
そうしてその世代がTikTok等の他のメディアに持ち込み、ニコ動の世代がそれを追いかける。丁度TVでいうところの再放送と同じ位置にあって、数値も稼げることからこの流れが増えていき、結果としてニコ動に一部の若者が流れてはその文化に少しだけ触れて微量に衰退した文化がほんのりと盛り上がる。
勿論オールドメディアが再ブームとまではいかず、ただその残した文化が再放送のように展開する。野獣先輩やニコ動のコメントの独自な文化がyoutubeといった各SNS等に入り込む。
昆虫
蟻には働き蟻とニート蟻と働かない蟻が存在する。
元々はニート蟻は働き蟻が不足したりした場合に活動する自然界の法則のように語られていましたが、働かない蟻が存在し、どれだけ危機的状況になっても別の場の巣に寄生してひたすらに紐のような生活を続ける。
ただこの働かない蟻は子孫は残し、子供を量産する。
これは自然界であるというよりも人が管理した中で発生した。
局地的集合が無気力を生むという説
ニート蟻ならまだしも、働かない蟻という存在は不要なのだが、この存在の意味はまったくもって現在に至るまで解明されていない。
ただ、ネズミの楽園実験でもあったように、その土地が小さいから発生していると考えて自然だ。暮らしが豊になり、何もかもが発展した土地、その局地的な場で限界値に達するとネズミだろうが蟻だろうが無気力になっている。
これは集合すると死滅してしまう可能性があるということだ。
ネズミにその状況を与えたから死滅したともとれるし、蟻にその状況を与えたから働かない蟻が現れたとも取れる。これが広大な土地なら発生しない可能性が高く、現にネズミは各国に存在し死滅していない。
ただ局地的に密集すればそれが発生すると仮定すれば、日本国内での少子化や人口の低下、各国でもそれが増えすぎるとある一定の段階から低下する、これは人口が多すぎて密集し過ぎているからと考えて自然でしょう。
恐竜
恐竜の時代、中生代は約1億9500万年の長い期間ですね。
それでも恐竜がすべて死滅したということは、生物が永続できることそのものが不可能に近い。それは隕石だったり天災だったり、あらゆる生物はその繁栄を永久に行うのには物質的な制限がある為に出来ない。
このことからも人は不安になる動物ですから、他の惑星へといずれ目指す、というかそういう計画は随分前からあります。
意識
CPUの中に人の意識を入れるというのも永続できる手段でありますね。肉体が無くてもその脳の働きがあれば仮想空間で過ごすことを電力が許す限り行えます。
ただやはりこれにも電力という制限がかかります。
人の群れ
整理整頓されれば鰯の群れになって大量に増え、何かが犠牲になって消失する。例えるなら、本を棚に入れるときに本が少ないときには別のものを置いたり、飾ったりと余裕ができる。
きっちりと本だけで構成すればかなりの数を配置できるが、本だけで埋めるというのは景観が良くない。本を読むだけの棚だとつまらないから、ゲームソフトを保管したりフィギュアを配置したりすれば退屈な棚にならない。
勿論埋まれば新たに棚を買うか、本や写真立てや小鉢に入れられた観葉植物等々を捨てなければならない。
例えば土地にある木々、草花、岩、海、そういったものを捨てたり埋めたりして人がそこに暮らす。暮らす場合はそこに住居を建て、商業施設を建て、工場、コンビニ、といった無駄がどんどん増える。
ここでも埋まれば新たな土地へ向かうか、施設などを破壊しなければならない。しかし、人は排除できないから、それらの施設は現役で稼働し続ける。
そうして鰯の群れと同じように建物も流動的に同じ流れを組み、人の行動もそれに沿って同じ行動を取る。ここで新しいものができればそこに人がとてつもなく押し寄せて増える。だからこそまたその新しかったものが複製されてどんどん似たものが増えていく。
こうして形成されるのが村から町になり、いつしか街になってビル群や工場地帯や商業地帯等々不必要なものが増える。またしても人は排除できないから、それらの施設は現役で稼働し続ける。
これがデッドスペースになっていて、本来は本を入れれるはずが、そこにある別の物が接着されていて捨てられない。かといって本だけだと退屈でつまらないから別の棚に向かってしまう。いつしか稼働しなくなった施設も取り壊されたかと思えば、また似たものが建て直される。
これの繰り返しによって同じ行動を繰り返すように人はなっている。
資源は有限
人がいなければ土地にあった木々、草花、岩、海などは捨てたり埋めたりはされない。
かといって自然界でも似たようなことになっていて、昆虫も結局無駄に増えたり、鰯も無駄に増えたりしては生態系を変えて他に影響を与える。
昆虫が増えればそれを食べる生物が長生きし、その生態が別の生態系に影響を与える。鰯が過多になれば大量の腐乱死骸が発生したりそれを食べる生態に影響を与えたり何かに影響を与える。
それはガスだったり汚染だったり。
このように少なくとも自然に影響を与えている。
例えば鳥が死滅したら作物に昆虫が大量に増えて作物が死滅する。その作物がなくなればそこにいた昆虫が死滅する。その作物を食べていた動物も死滅する。
これらが増えすぎても影響があり、鳥が増えすぎると昆虫が少なくなるし、そうなるとその昆虫を食べていた別の生態が危うくなる。
例えばゴキブリがすべて死滅したら野良猫は死滅する。
人も同様に自然界のもの、増えすぎると何かに影響を与える。
皆は永遠に物が発生している、永遠に生成されていると勘違いしている。資源というのは有限で、いつかは無くなってしまう。何かをつくるときに必ず何かを壊す訳で、それは確実に消費される。その消費されたものを復元したりまたつくろうと思うと時間と労力、あるいは新たな資源が必要。
日本国内で現状日本国内にいる人を賄える資源は足りない、これは人口が過多であるということ、つまり景気が回復するほどに人口を増やしても、またしても新たに問題が発生する。現状で足りないのだから、輸入に頼らないといけないので他国から嫌われれば終わる。
かといって人口が下がれば他国との差がついて危うくなるという問題、元々輸入というのは各国との繋がりも意味する、つまり人口が低下して弱っても問題あり、人口が増えすぎても問題あり。
棚に置かれている食品等々が棚から消えることが無いに等しいぐらいに配置されている。それはそれぐらいに資源を使っているから、そうして必要数の10倍や100倍ほどの廃棄処分が行われ、その廃棄処分にも資源が使われ、自然を汚染し、労力と時間も使われる。
その労力によって争いが増えることもあってもはや意味不明だ。
疫病
病、元々は人と動物での間に病が感染するのは少なかった。
しかし、大量に家畜を育ててしまったがゆえに不衛生になってしまって新しい病がひとへの感染にまで繋がった。人の都合で育てられ、ほとんどが処分されて挙句に病原菌を発生させている悪循環。
ましてそれを利用して細菌兵器というものまでつくられるんだから意味不明ですね。
家畜というのはスペースが限られるので、すぐ隣に牧場があったり養豚場があったりします、なので感染のスピードはとんでもなく早いです。
これによってそれらを経営している人らへのダメージがでかすぎるので再起不能になってしまい、ひとつが壊れれば連鎖的に壊れていき、また新しく設備投資するにも時間とお金と資源が大量に必要となります。
このとき、牛がその地域全般で全滅した場合、他国から輸入したりする訳で、その運搬された牛も不衛生、ましてその費用から考えれば国内で牛を育てる必要があるかどうかという問題もあります、つまり輸入肉だけで済ませようとするかもしれません。
そうして強引に牛を育ててまた全滅、こうなるともはや何をやっているのかとなります。
ここに何千万か何億か投資し、その次の日にすべて殺処分というのもあり得ますからね。
まして酪農などは利益も少ない、そこまでの設備投資をしていつ崩壊するかわからないんだから、誰もやりたがらない訳です。
牛乳は今の内にいっぱい飲んだほうがいいです、体に悪いとかそういう問題よりも。
廃棄処分されている牛乳は相当な量で、もはや捨てるために牛から乳を取っているようなもの。チーズやヨーグルトもいっぱい食べたほうがいいですね、乳製品は積極的に取った方がいい。
家畜の餌も危険なものが多く、ストレスだらけの狭い空間なのですぐ弱って大量に殺処分されてます。その過程すべてにおいて病の感染がいつ起こってもおかしくないということです、血や腐敗した肉は危うい訳です。
技術革新が間に合っていない
最低限のエネルギーから期待値最高レベルのエネルギーを使用したい。
今の状況で資源を乱用したのがそもそもの間違い、この段階に入って資源が減らない、クリーンなエネルギーで汚染しない、そうして自然界の復元を完全に行ったあとなら無料もあっていいでしょうね。
しかし、無料の功罪は無気力にもなるから、それだけの問題でもない恐ろしさがあります。退屈は殺人にまで発展する、これは言い過ぎではなく、暇は戦争を引き起こします。
核が数発落とされるだけで人間は死滅するし、他の生物や自然にあるものも破壊します。
捕食者の不在
人は自然界と異なるところがあって、それは他の生物とは違い天敵がいないということ。
人を捕食するものは人以外存在しない。
あとは自然界の災害しか残されていない、だから無駄が多く、それが過多になって自然界にあるものが消失していっている。
つまり人口過多。
人が多すぎる。日本は人口低下に危惧しているけども、これらのことから6千万人が丁度いいというのがある。
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……最後に。
人口が多すぎると書いたのは増えて密集すると低下するという意味ですが、そこを解決できるのは肉体を不要と捉えて物質的な場面でなく意識(脳)を保存して使用することでも可能でしょうし、資源の再生やエネルギーを最小に抑えて最高のパフォーマンスを行えれば、人口が減ろうが増えようが問題は無く、それは解決といえるでしょう。
つまり今よりもっと科学や技術を発展させていく、ということです。
ここまで簡易的にすぐに思いつくことを並べて書いていっただけでも相当に私たちの世界、人間の社会には無駄が多く、浪費し過ぎていることがわかります。もはや何をやっているのか意味不明で、これだけでなく人同士での争いも絶えません。
政治がどうとかも勿論ですけど、不倫がどうとか、汚い食べ方とか見た目とか、多様性とか、いらないことだらけです。議論も無駄だらけで、やっていることも資源の使い方も、人口の増え方も、あらゆることが無駄、寧ろ無駄しかないでしょう。
だから論じたくないとなりますね、論じている人が言っている言葉がどれだけ無駄か。
暴言やら不祥事をどうにかしても資源は戻ってきませんし、景気も良くなりませんし、日本の人口も減り続けます。
そして恐ろしいことにそういった話題を出している人はそれが本気で正しいと思っているという点ですね。結局そういった話題は誰かの餌にされてその話題性でお金が動いてそれで終わりです、つまり論じている人は増え続けるんですね。
そうこうしている内にどんどん大事な問題は放置されて悪化するという悪循環。
このままだとAIが人知を大きく超えたとき、理で考えれば人間不要論に行きつく可能性は高いです。このままでは寧ろ人は何もしないほうがまだましということになってしまいます。
妬みや恥といったネガティブな概念はどうでもいい概念です、俯瞰的な概念として取り入れたり燃料のように取り入れた方が効率が良い訳です。
そこに支配されて他者の足を引っ張るぐらいなら、何でも良いので創作活動や新しいことにチャレンジしてみることを当note内では強く言及しているのです。
以上……。
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