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注目されてはいけない
昨今は目立っているということ自体が損をする時代に突入しています。もし何かをしたいのなら目立たず、ひっそりと遂行し、その目的を達成する必要があります。
それは幸福を求める行為も同じです。
冤罪の見極めがされにくい
例えば公的な存在による様々な陰謀論がありますが、これが事実であると断定できない要素が多いです、ただ実際にあることは周知はされていますね。
冤罪というのは噂から新たな疑惑を生み、勝手に増えていきます。
火の無いところに煙は立たないということわざが古い言葉になりつつあります。ここにはただ単純に嫌われているとか、そういった性癖であるとか、余りにもくだらない要素からそういった冤罪を行う事があり、誰でもそれを見たり聞いたりするというのは少ないようにみえて、実際は割と身近にあって、その共通の場は学生時代に遭遇したり経験するでしょう。
かといって陰謀論に染まりすぎても結局はどうしようもない利権が絡んでいたりしますし、誇張されたり精神疾患の一部ともされて混ざっていて、その一方で現代においてSNSの普及によってある程度に目立ったものは周知されて問題視されています。
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加害者と被害者
加害者の意識としてはそのつもりはなかったというのがいじめ問題でよくあります。被害者側にも同様にそれが入ることが大いにあります。
いじめという問題は加害者側の意見を聞いてみると大体は「こいつが悪いことをしたんだ」という主張が存在します。つまり加害者側は自身が被害者であると感じているというポイントがある訳です。
しかしながら、執拗に追い詰める必要もなく、興味が無いのであれば関わる必要もない筈ですが、自ら関わろうとしてはいじめに積極的になることがあります。
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大義名分の種類
この人は不快だから攻撃して良いという要素もあります。
これが理屈によって形成されるならば、遺伝子レベルでの話に持っていくしかなく、それ以外の説明がつかないという厄介さがあります。
誰にだって苦手な人は存在しますが、その苦手な人を全ての人が嫌うことはあまりないのですが、ここにひとつだけ多数派になる要素が存在します。
それがルサンチマンの精神やシャーデンフロイデの思考です。
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:ルサンチマン
弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情。そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」のこと。
:シャーデンフロイデ
他者が不幸、悲しみ、苦しみ、失敗に見舞われたと見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情。
これらに含まれる要素が性癖であったりもします。
好きな人を追いかけているとその人にたいして信者のように全てを肯定しますが、恋愛でも所謂推し活であってもそこに自身による都合によって嫌いになった瞬間から、相手に悪意を持って活動的になることもあります。
知能と認知能力
知能というのはグラデーションであって、何を持って知能とするのかは図れません。例えば話す内容の理屈がいくら整っていてもデジタルな分野が苦手な方もいますし、倫理観が高い人でも考えを聞いてみると妙であったりします。
IQテストというのがありますが、これは元々はその年齢に合った知能を図るために用意されたもので、基本的には未成年に使われ、その未成年が成人とどれぐらいに知能の差があるかを調べる為に使われていたという背景があります。
例えばなぞなぞを解くのが得意だったとして、賢さに比例するかというとそうでもなく、将棋が強いのに理に反することばかりする棋士も存在しました。
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ただそういった謎解きを理解できるというのは多少の倫理観の理解になることはあります。まったく無いよりはあったほうが良い訳ですが、認知能力の高さと比例しないということがあるのです。
しかし、知能が低すぎることで理解できずに間違った情報を正しいと思い込むこともあるし、知能がある程度あるにも関わらず認知能力が低い場合もあります。
ここに気性という人の個性や性質、環境などの要因が加わり、その関わりからそういった認知バイアスが発生することも多い訳です。
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:認知バイアス
物事の判断が、直感やこれまでの経験にもとづく先入観によって非合理的になる心理現象のこと。
複雑で単純な嫉妬心
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貧すれば鈍するという言葉通り、自身の不甲斐なさから攻撃的になったりしますし、それとは別で「親切心」という内容に置き換えて自らのアピールにしてしまうこともある。
サイコパスを恐ろしい存在だと認識している人もいますが、近年ではあまりそう思われなくなっているのはカバートアグレッションの存在や、ルサンチマンの精神、シャーデンフロイデの思考など、そういった被害に実際にあったり、実際に目の当たりにしてはそれが精神疾患として扱わられるようになって目立ってきたのもあります。
気軽に専門的な話をSNS等々で知ることもできるようになり、それと比較しての体験だったり、見聞きしたことから徐々に明確になっていきました。
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性的志向の多さが差別を減らす
同性愛は過去の歴史では犯罪行為でした。
同性を愛するだけで投獄されたり、処罰された時代があった訳です。
しかし、それらも多様にある程度はわかりやすく示されたことで差別の一種となっていき、自然な個体、つまり動物であっても同性と性行為をすることもあり、これといって不自然ではないように認知されました。
ただ人間は知能としてかなり高い位置に存在する動物である筈ですが、動物というその種の根源を知っていても尚、それが犯罪的であると感じたり、理解できないからというだけの理由で攻撃した歴史がある訳です。
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もし仮にあなたが異性に恋をしてそれが犯罪であるとされればどうでしょうか。それは明らかに不自然であるからこそ、これらが問題とされた訳ですね。
ただ何もかもを多様性として存在させるとこれも歯止めが利きません。よってそこに性的志向のフェチズムの内容との区別は必要ですね。
仮に極端な性癖として、スカトロというプレイをしている人にたいして恐ろしいと思うのならまったくの見当違いであるだろうし、確かに不快に感じても、そこにその人が脅威となる相関性はありません。
これはそのプレイに対して仮に理解があって興味があった場合はそれに対して恐ろしさという概念は発生しない訳です。ただ、弱者がターゲットにされるフェチズムはその被害者の存在を否定してしまうのでペドフィリアやネクロフィリアは脅威とされやすいですね。
はっきりと多数に理解が出来ず、かといってそれだけでは脅威ではありませんが、警戒はしてしまいます。
だからこそ法律が存在しています。
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違反であるから罰せられるその行為は過去に様々な問題があったから法で取り締まった。原始の時代ではいきなり人の住処に勝手に出入りしただろうし、いきなり殴って奪ったり、いきなり乱暴を働いたでしょう。
そうしてその人物が脅威とされて淘汰された。
そこに法が形成されています。
冤罪と不法
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冤罪というのは故意かそうでないかによって話は変わりますが、故意なら犯罪行為として取り締まれますね。
ただそれが冒頭に書いた通り、利権の絡んだ陰謀論も介入しては精神疾患の一部とも混ざり、そこに追求をかけるのが難しい訳です。よって一度冤罪をかけてしまうと長期的に調査せざるを得ず、周りはそれに振り回されては明確に加害者と被害者が存在しない時間が続きます。
通常やっていないことの完全証明は難しく、無いことの積み重ねによってでしか立証できません。
攻撃されない対象
目立たず、不快でもない無味無臭、無個性であり、個性があってもわかりやすい個性、そういった人が最も幸福度が高い、今はそういう時代でしょう。
美人薄命でありイケメン薄命でもあり、数値も目立つと迫害されますから、ひっそりと存在することが今の時代において最も良い環境です。
その中でもぎりぎりのラインにいる層はかなり生きやすいでしょう。
納税額は番付に入らないがそこそこにいる、総資産も目立たないが確実に他者よりは多く持っている、SNSを行っていなくて交友関係も不足しない程度にある。
欲は程々に、そうして没頭できるものがある。
これが現代のハイブリッド型の生き方となっています。
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◇
最後に……。
ここに書いたのは少なくとも継続した一定の控えめな幸福感に関する内容であって、これを全ての人が行うと確実に国や世界が衰退します。ただ、実は皆ここに無意識に向かっていて、だからこそ徐々に下がっていっている面もあります。
必ず何かを成す場合は攻撃されなければならず、それを許容できなければ精神的に疲弊しますね、人はそういうものだと認識しなければいけない。更にいえばそういった安定思考では物事が動きません、狂人的なやり込みや研究、そういったことをも否定する考えでもありますから。
大きな欲望の達成も大きな幸福感には違いありません。
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しかし、科学の発展によってそれが可能になる可能性もあり、それこそがシンギュラリティへの到達という訳ですが、実は今こそがその時代に入っているとも取れます。
多様に暇を潰すものは存在し、孤独を埋めるものも存在し、あらゆるコンテンツで溢れています。ただそれとは別に不便さが減ったからこそ更なる不便さを感じ、どうしたって満足できないという思考も入ります。
だからこそ趣味的に肉体的になりたい、趣味的に脳も活発に動かしたい、そういった流れに入っていく。
貨幣や数値を追う価値が徐々に減りつつありながらも貨幣や数値を求め、不便が解消されつつも不便であると感じる。実際は過去からすれば暮らすだけで精一杯だった時代はとっくに過ぎているのですが、ひたすらに人は暮らしが良くなっていないと感じる。
SNSの普及によって他者との比較が全世界で可視化され、その存在意義が否定される感情がルサンチマンやシャーデンフロイデの思考に陥りやすくなっている。
別にそれを見なければ良いだけですが、興味がないものでも多大に影響を受けたり与えたりする。
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それをその暇な時間をそこに費やしているからですね、あるいは忙しい合間のちょっとした暇つぶしに使われている、何だったらそれが情報弱者に対しての商売にもなっている。
だからこそ暇は死ぬよりもつらいことであるというのが最も現代を現した表現であると私は思う訳です。
健康であり、何かに没頭でき、且つある程度の交友関係があり、少々のストレスがあって、多少の達成感や幸福感がある、そこに大きく目立たないという状況が入れば継続的にじんわりとした幸福感が得られるでしょう。
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些細なことに大きな幸福感を持てるかどうか、市販されている白米を食べて感動できることは現代ではまず少数派ですから、白米が貴重なものになってようやくそうなります。
恐らく些細な日常で幸福感を感じられては満足できるのは、大体の人間には不可能に近いのかもしれませんね……。
以上……。
◇