1. 蛸
風呂場にタコがいた。
帰宅してまず風呂に直行したところで、浴槽の中で大きなタコが一匹、ぬたぬたとうごめいていた。
人間はパニックになっても意外と動けるもので、余計なことを考えるより先に私の指が110を押していた。
お風呂にタコがいるんです。え、訳が分からない?すみません、とにかく来てください、わっ!!…大丈夫です、ちょっと墨を吐かれまして。ええ怪我はありません。
怪訝そうな声のオペレーターになんとか事情を説明し、風呂場でタコとにらみ合いながら警察を待つ。10分ほどして到着したのは30代くらいのツーブロックの男性で、がっちりした体形が素敵な人だった。水垢のつきまくった鏡に映る私はべっとり墨にまみれていて、自分の磯臭さに顔を覆いたくなる。
警察は浴槽で蠢くタコを見て一瞬固まり、排水口からは来れへんよなあ、などとぶつぶつ呟きながら考えこんでいたが、すみません、最近別れたパートナーなどはいますか、と唐突に聞いてきた。
私は墨で濡れてしどけなく体に張り付いているであろう安物のブラウスの、盛り上がった胸の部分(密かに自信がある)を意識しながら、そんな人はいませんと答えた。
そりゃ突然で驚いたけど、お兄さん正直かなりタイプだし、墨まみれでどうこうなるのもやぶさかではないわ。内心踊り狂い、色んな覚悟も済ませた。
そんな私に警察は、もしかしたらストーカーの嫌がらせもしれません、心当たりはありますか、と真剣な顔で聞いてきた。ストーカーも何も、毎日職場と家の往復しかしていない私に心当たりがあるわけもなかった。
とりあえず事件性はないということで、何かあったらすぐ教えてくださいねと言い残して彼は帰って行った。レジ袋にタコを詰めて回収していくあの広い肩幅が素敵だったと思いながら、私は一人でぬめる浴槽を掃除した。意外とよく泡立った。
次の日もまた、タコはいた。
昨日しっかり邪な気持ちを抱いてしまっただけに、連続して呼び出すと自演と思われまいかと要らぬ心配をしてしまい、今日は一人で処理することにした。
苦戦しながらタコをレジ袋に詰め、ETさながら自転車のかごに乗せて近所の海まで連れて行く。タコは海の生き物だから、生態系を乱す心配もないはずだ。
海に投げ入れたタコは、命を救ってやったにも関わらずいつまでも死んだクラゲみたいに波打ち際を漂っていて、腹が立ったのですぐ帰った。
その次の日も、次の次の日も、タコはいた。
そのたびに私は海に捨てにいった。食べることも考えたが、下処理の面倒さに辟易してしまい諦めた。はらわたを引きずり出して塩でもみ洗いなんて、考えただけで面倒だ。
一週間続いたところでさすがに気味が悪くなり、また警察に連絡することにした。もし本当にストーカーなら、愛情表現を完全に間違えている。ごんぎつねで恋愛を学んだ奴かもしれない。
今回もやはり、あの警察が来た。一日働きづめだったのか彼からはふくよかな汗の匂いがして、私の背筋が泡立った。
なんでもっと早く連絡しなかったのかと聞かれたが、あなたが魅力的だからだよなんて言えるわけもなく、私はひたすら謝るしかなかった。日中は彼がマンションを監視してくれることになり、俺がいるから大丈夫、そない心配せんでください、と彼が笑った。
この男性のがっちりとした筋肉質の身体や柔らかな皮膚は、県に蔓延る悪質な犯罪を解決するために使われるべきだ。私のタコを見守るためにこの健やかな肉体が拘束されるなんて。申し訳なさと背徳感に痺れる。
次の日家に帰ると、黒いワンボックスカーの中から警察が出てきた。一日見張ってたけど怪しい人は来ませんでした、念のため部屋の中も確認して帰りますわ、そう笑う彼と二人でエレベーターに乗り込んだ。
何階ですっけ、あっ7階です。私の部屋行きのボタンを男性が押すのなんて何年振りかと思いながら家に入り風呂場を見ると、心なしかいつもよりでかいタコがあざ笑うようにぬたくっていた。私は警察と顔を見合わせた。
次の日も警察は来てくれた。お昼、お弁当を家に忘れたことに気が付いた。職場は家から近いので、歩いて取りに戻ることにした。男性に差し入れでもした方がいいか、でも目立ってしまうといけないよな、そんなことを考えながらマンションに戻ると話し声が聞こえた。
リホちゃんごめんな、今日も仕事抜けられそうにあらへん。え、土日?休日はあかんいうたやろ、嫁がうるさいねん。はあこの現場ほんまいつまでやらなあかんのやろ、なんか辛気臭い女の風呂にタコが出続けてて、ほんましょーもないわ。
私は職場まで引き返した。コンビニでスープ春雨を買って昼食にした。
帰宅すると、警察が素敵な笑顔を浮かべ、今日もタコを確認して帰ると言ってきた。もう結構です、ごめんなさい。多分ストーカーじゃなくて排水溝から上がってきてるんだと思います。そう頭を下げてマンションに入った。彼は困ったように笑ったが、それでは気をつけて、と言ってあっさり帰っていった。
風呂場にはやはりタコがいた。私はそれを引っ掴んで、頭に指をいれてはらわたを引きずり出した。タコは墨を吐いて暴れまくった。Tシャツの首元や袖にタコの足がまとわりついてビロビロになった。壮絶な戦いの果てにタコは動かなくなった。私はそれを塩で揉みまくり、鍋でゆでてぶつ切りにした。マヨネーズと一味をかけて食べた。ゴムみたいで、あまりおいしくはなかった。