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第15停留所:坂下
バス停がある。
坂を下った先の集合住宅の前にそのバス停はある。
幹線道路から外れ奥まった坂の上に私は住んでいる。
バス停までは歩いて五分ほど、厚手のコートに腕を通し、胸にひりつく重たいものを携えバス停へ向かう。
季節は窓に露をつける。
吹き抜ける風は切り裂くように冷たく乾いているのに。
白い花が風にゆれている。
空は晴れ渡り、空気が澄んでいる。
私の気持ちは重たく、清々しさはない気分だが悪くない。
緑の生い茂った木と目が合った。
秋には小さくも華やかなオレンジの花をつけ、
秋を告げる香りを放つあの木は今はぐっすりと寝ているようだ。
枯葉が風に運ばれていく。
私もあの葉のように見えているのだろうか。
年を取り、かつては青々しかった葉も時間とともに枯れていく。
風に運ばれどこへ行くのか。
葉っぱはカラカラカラと音を立てどこかへいってしまった。
どこかで大きく間違えたのか?
毎日の小さな選択を少しずつ少しずつ積み重ね、
気が付いたらこんな端まで来てしまったのだろうか?
大きく間違えていたならこんな思いはしなかったかも知れない。
この答えはいつまでも得られないだろう。
詩人のような考えを巡らせていると私はバス停に着いていた。
幹線道路沿いのバス停。
すでに3人ほど並んでいた。
皆寒さに耐え体が縮こまっているように見える。
そんな我々の目の前を何台も車が走り去っていく。
足元を見ると雑草が目に入った。
色が褪せ枯れているかの様だった。
しかし生きているのだろう。
自分と重なり虚しくなった。
ブロロロロと大きな排気音が聞こえ顔を上げる。
バスではなかった。
小さくため息をつき、大きな排気音を吐いた車を目で追い、右に顔を向けるとバスが見えた。
乗らなくては。私は上着のポケットに手を入れICカードを手に持った。
そして気づいた。小銭入れを忘れいる。
無くても困りはしないが、気がついてしまうと急に欲しくなる。
無いものねだり、その言葉がぴったりだ。
小銭入れのことは諦め目の前に止まるバスに向かいなおした。
「このバスはーー」いつものアナウンスが聞こえる。
そんな案内を真剣に聞くことなく、我々はバスに乗り込んだ。
小銭の音、ICカードを認識させる音、アナウンスの声、運転手の聞き取れもしないお礼の声。
私はカードリーダーを真に見据えカードをかざし、
残高を確認し、車内へと視線を移した。
始点に近いバス停なので車内は空いている。
一人掛けの席が空いているので、しっかりと席を見据え着席した。
胸にあるひりつく重たいものは納まりが悪く、
私はちょうどいい位置に動かし、改めてしっかりと座りなおした。
発車だろうと思ったが、閉まりかけたドアが開いた。
空気の駆動音が往復した後、息が弾んだ青年が乗ってきた。
青年は運転手に一言謝り、私の横を通りすぎ、
車内の奥の方へと進んでいった。
気に入らない……。
時間に追われているわけでもない。
怒る理由は何処にもないのに不服だった。
窓枠に肘を掛け、頬杖を突き小さくため息をついた。
窓は白い曇をつけ、冷気が私の顔に刺さる。
人生なんてそんなものだ、何でもないことに腹を立て、どこかにある怒りの捌け口に流し込むだけ。
バスが発車した。
私は流れゆく街の景色をぼんやりと眺めていた。
いや、眺めていなかったかもしれない。
ふと目に銀行が入った。
今日が祝日でなければ銀行に行ってもよかったかもな。
でも銀行ってつまらないよな。
そんなことを考えていると、社会人になる前のことを思い出した。
会社指定の銀行口座が必要で作りに行ったな、
今はそんなことしなくてもよくなったけど……。
昔のことを考えている間、バスはいくつものバス停に止まり、そのたび乗客が乗ってくる。
降りる人間はまだ少ない。
思えば街の風景も変わっていったな……。
昔あった何のお店かわからなくなった店たちは、
インド料理屋、中華料理屋、食パン屋、24時間ジムへと変わっていた。
気が付かなければ気が付かないものだ。
時間とともに変わりゆく街並み。
取り残されているわけではない、置いて行かれているわけでもない。
私はそこにいない。ただそれだけだ。
学生時代はこんな思いをしていたのか?
私は確かにそこに居た。置いていかれることもなかった。
華やかではないかもしれないが、今となっては輝いて見える。
しかし今は色褪せて。
あの頃のような輝きを放つことは不可能に近い。
諦めてからは早かった。
そういうものだと思えていた。
納得のいかない説得に、特段気を揉まなくなった頃、すでに端に追いやられていたのだろうか……。
今にしてみれば、くだらなかったあの頃は何もかもが宝物だった。
若くて青い、無知で自由だった。
枯れた木に花は咲かない。
綺麗な水面に浮かぶ枯葉のごとく、端に追われて見向きもされない。
私とは一体なんだったんだろうか。
車内が混みあって来た頃、バスは大きな駅前のターミナルに到着した。
物思いに老けてた私は思考が追いついていなかった。
しかし意図せず席を立っていた。
また小さな選択を間違えただろうか、間違いなのかはこれから決める、それでいい。
私はバスを降りた。
行き交う人の多いバスターミナルの道の上、
人の多さに視線は移ろう。
大きく息を吸い込み、私は小さくつぶやいた。
「許せない。」
私は胸に携えたひりつく重たいものを強く握りしめ、
目の前にいる人間の背中を切りつけた。
枝葉を切り裂くような手応え。
深く切りつけたのだろうか、刃先から手を介し腕へと感覚が伝わる。
「許せない!!憎い!!ふざけやがって!!なにもかもおまえらぜんいんシマツしテヤル!!!!」
怒りと憎しみの爆発的な感情が全身を駆け巡り、手に持った包丁で次に切りつける相手を探した。
その時、女の大きな叫び声が聞こえた。
耳を切り裂くその声に大きな怒りと興奮を覚えた。
途端に息をするのが苦しくなった。
耳元に心臓があるかの如く私の脈拍は大きく強くなり、包丁の柄を握る手の力が増していった。
そのままの勢いに包丁を振り回し、走りまわり、何人もの人間を切りつけ大きな雄たけびを上げていたかもしれない。
耳に入るのは女の絶叫、男の絶叫、己の鼓動。
最早何も感じなくなる。
何が起きているかわからない。何をしているのかもわからない。
とにかく憎い、すべてが憎い。
お前らのせいだ。
目につく人間たちを切りつけ続けた。
一人の人間が目に留まり、思い切り突き刺してやろうと切っ先を向け走りかけたその時、体が大きく傾いた。
側面からの衝撃に気づいたのは視界が大きく揺らいだ後だった。
受けた衝撃とは反対側の体から衝撃が伝わった、私は地面に倒れていた。
私の体は次々と衝撃を受け動けなくなった。
腕を振ることも、体を起こすこともできない。
振り払いたくとも払えない。
許せない。
包丁を握る手は強く。地に伏せた私はもがき苦しむ獣ような叫び声をあげながら状況を理解した。
終わりを迎えた。
理解した時には取り返しはつかないことになっている。
抵抗を止め、これから待ち受けることについて思考が巡った。
脱力し包丁を握る手を緩めた。
叫び声、怒号が徐々に頭に入ってくるようになり私は冷静になった。
全て終わりだ。何もかもなくなった。
地面の冷たさを感じながら、腕に着いた血を眺めていた。
気分は晴れることなく、どす黒い未来への責任と重圧を感じ、
私は目を閉じた。
2月の駅前バスターミナルで発生した、男女7人が切りつけられた事件の犯人武藤被告はこう語る。
「誰でもよかった、世界に色が消えていって、この世界に恨みしかなかった。
綺麗に色付いていた宝物がドンドン色褪せて、なんにも無くなっていく感覚が辛かった。
社会は残酷だなと思います。しかし私はただの犯罪者です……。」
高校を卒業し就職。
6年勤めた頃職場で徐々に浮き始め、いじめが始まり全てが狂っていったと語る。
いじめを理由に退職し、その後は職を転々とする中で社会への恨みを少しずつ積もらせていった。
学生時代の友人達は武藤容疑者について、次のように述べている。
・何処かズレていた。
・嫌いではないが少し苦手だった。
・変わり者で不器用な人。
人と協調するのは不得意だったのかもしれない。
しかし6年勤められたということは、手を差し伸べる人間が居たのではないかと推察できる。
その様な人が居続ければ彼は選択を誤る事なく、犯罪に手を染めることもなかったのだろう。
人を救うのは人、人の人生を壊すのもまた人なのだ。
武藤被告に判決が下るのは12月中旬の予定だ。