信じているものは何(6)
脱線が甚だしいですが、お許しください。
さて、「開かれた教会」ということで
典礼が刷新されましたが、一体どのように
変わっていったのでしょうか?
まずミサ聖祭の変更
背面から対面になることで、信徒の目は神父に注がれます。
祭壇におられるキリストを見る頻度が格段に減り
皆は人である神父様を見るのです。
(キリストから目を背けさせる)
聖体拝領
司祭(神父などのミサを行う人)のみが
触ることが許されており、
司祭になる儀式に手が清められる。
しかし、一般信徒(信者)はその資格がないため
直接口(舌)でいただく。
とてつもなく不敬である。(不敬のススメ)
日本人でも、貴重なものは素手で触ると
とてつもなく怒られますね。
祈りの言葉
(表紙の画像参照)
文語体には、敬意のこもった言葉が
あるが、口語体ではそれらがなくなる。
例えば、
「御体内の御子イエズスも・・・」
という言葉が
「あなたの子イエスも・・・」
となっている。
日本語としての敬意が排除されている。
(キリストの人間化)
すなわち、敬う気持ちを無くさせ、
内から信仰を破壊しようとしている
ほか考えられないと思うのであります。
教会
教会の建物も、現代風に変わってしまいました。
長崎には天主堂(昔の教会の言い方)という建物が
多く残っている。
ゴシップ調の建物が多く、教会の外観の美しさもそうですが、
一歩中に入ると、その荘厳な雰囲気に、気持ちが引き締まる
感覚になり、そこに神を感じられるものです。
だが、現在は講堂もしくはホールに椅子を並べたような
講演でも行われるのかというような状態です。
ここでも、信徒から信仰を奪おうとしているのが
よくわかります。
わたしは、言葉は生きていると考えています。
日本には「言霊」という言葉があるように
キリストの世界でも
「はじめに言葉があった
言葉は神とともにあった」
と教えられている。
話が横道にそれたように見えますが、
段々と、私の信じるものが、固まっていく
悪く言えば信じきっていく姿が見えてくるのでは
と思います。
そして、畳み掛けるように、S神父様の活動があった。
それは「LP運動」というもので、中心人物のLP氏が
聖母のメッセージを受けており、この世界とカトリックの
終焉のメッセージが中心であった。
そんな神秘的な、また終末的な活動に
私がはまらない訳はありません。
私が、寂しさを覚え、教会へ行き、
本屋でマリア様の御像を購入し、
本を購入し、そして神父様に出会った。
これが、「神の導きでなくてなんであろう」
そう思うのも難しくなかった。
完全にハマったのである。
・・・。
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