大阪の旅【前編】
先日日帰りで大阪に行ってきた。
一人で遠出するのは、出不精な私にとっては挑戦だった。
行動力が無く、臆病な私でも新幹線の切符を取ってしまえば、もう行かざるを得ない。
あっという間に京都を過ぎ去り新大阪に着いた時、こんなにも簡単に、こんなに遠くに来れてしまうのかと、呆気ない感じがした。
知らない町の知らない建物。自分の住む町にあったら写真を撮ろうとは思わないかもしれない。遠くに来てみて、建物という被写体が好きな事に気付いた。
スマホがあるおかけで、全く迷わず万博記念公園駅に到着した。やはり呆気ない。
昔の人はもっと道に迷っていたのだろう。道に迷って、人に聞いて何とか目的地にたどり着く。その方がよっぽど旅っぽさがあって良いんじゃないかとも思う。
駅を出るやいなや、太陽の塔が視界に飛び込んできた。
もう少し焦らしてくれても良いんじゃないかと思った。
入場ゲートをくぐると正面に太陽の塔が鎮座している。ファーストインプレッションは「結構よごれている。」という極めて月並みな感想を抱いてしまった。
近付いていくにつれ、その大きさと異様さに圧倒されはじめる。大きさがよくわからない。目のスケールがおかしくなってくる。大きさがバグる。
大阪に向かう新幹線の中でも、窓から見える富士山を見ていて、富士山に近づくにつれ、その本当の大きさが分からなくなる現象に見舞われた。
太陽の塔と富士山、生活している中で対面しないスケールの異様に大きい物を前にすると、人間の脳は一時的に処理が追いつかなくなるのかもしれない。だからこそ、印象的であり、感動を沸き起こすのかもしれない。
塔内部の通路に展示されているラフスケッチ。
ラフスケッチの段階で完成形と変わりない形になっている。このスケッチだけでも、エネルギッシュさを感じるのは、私が岡本太郎の毒に当てられているからだろうか。
太陽の塔内部。上に昇るにつれ生命の進化の過程が見られる様になっている。古代の生物から始まり恐竜や動物、最後には人間へと辿り着く。作り物ではあるが、テーマパークの作り物とは違った力強さが塔内に満ち満ちていた。
修学旅行の高校生集団が同じタイミングで塔内部を見学していたが、実に可哀想だと思った。
修学旅行という浮足立った状態で、友達とベラベラ喋りながら流し見してしまうなんて、なんて勿体ない。修学旅行のコースから太陽の塔は外してあげて欲しい。
太陽の塔の脇にあるEXPO70パビリオン館には大阪万博の貴重な資料が展示されていた。
資料からは1970年という年がいかにエネルギッシュであったかが伺え、なんとなく冷めている現代には無い熱狂が感じられた。
70年の大阪万博にあって、これから始まる大阪万博に無いモノは、皆が共通して思い描く理想の未来像なのかもしれない。
現在の太陽の塔の上の顔は2代目で、初代はEXPO70パビリオン館に展示されている。
本来は遥か高いところにある筈の上の顔を、たった500円払うだけで、目の前で眺めることができるのだ。太陽の塔に行った際はEXPO70パビリオン館は必ずセットで行くべきである。
太陽の塔の脇の広場で幼稚園生がピクニックをしていた。過去の時代の象徴と未来を担う存在達という対比があって好きな写真だ。
以前自転車が趣味だったこともあって、面白い自転車があると撮ってしまう。
万博当時に使われた電動自転車とのこと。
この自転車を見ながら、現代の電動アシスト自転車を脳内で思い浮かべられる自分は紛れもなく未来人である。
以上、大阪旅前編、万博記念公園の巻でした。
後編、司馬遼太郎記念館の巻に続きます。