「平沢進」観
平沢進は自称「音楽使い」である。彼の音楽は一聴すれば「平沢っぽいな」と気付ける程独特だ。また、近年ではアニメをきっかけに若い世代にも知られるようになり、その唯一無二性も相まって中毒的である。個人的な話をすると初めて聞いたのは「ソーラ・レイ2」だった。
まるで昔からのファンみたいな文面になったがそんな古くから聴いてはない。そして、この文章はファンクラブの会員でもない、なんならファンですら怪しい一個人の平沢進観だ。
枠組みを避け続ける男
平沢の肩書を普通に言うならば、「音楽家」や「アーティスト」だろう。だが、彼はそのような呼ばれ方を拒絶し、そういった枠組みに入る事から身をかわし続ける。自身を「音楽使い」と呼ぶのはその為である。肩書は他にもバリエーションがあり、個人的には「奏でる用務員」が好きだ。
枠に囚われたくないというスタンスそのものはアーティストと呼ばれる人間の中では珍しくはない。場合によっては青臭さと陳腐さすら感じる。ただ、平沢進ほどの身のこなしで何らかの枠組みから避け続けようとする者はなかなかいないのではないだろうか。それも音楽作品だけに限られた話ではない。彼は根っからのアウトサイダー志向なのだ。
JASRAC回避
平沢進の枠組みからの回避で真っ先に思い浮かぶのは「JASRAC」からの回避だろう。かの有名な「日本音楽著作権協会」である。恥ずかしながらこの平沢によるJASRACのエピソードを知るまではJASRACの問題点をよく知らず「よくわからんが取り立てがすごい」みたいな話を小耳に挟む程度だった。その後、雅楽や音楽教室で使用料を求めるのが話題になり問題が浮き彫りとなった、という印象だ。「ああ平沢、言ってたな」みたいな感覚だ。平沢は当事者だからというのもあるが、問題意識を持っていた。というか当事者である事が全てか。
ちなみにJASRACに管理されている楽曲はアーティストに著作権はない。理由としてはアーティストがレコード会社の息がかかった出版社に著作権を譲渡して、それをJASRACに委託する形になるからだ。アーティストが出版社に委託して、更にそれをJASRACに委託する事は権利の又貸しになるのでできない。詳しくは下にリンクを貼っておく。勉強になる。
彼は著作権の管理を別の団体に頼みJASRACの下から離れる決心をする。そして、過去にJASRACに委託した自分の音楽を取り戻そうとしたが、全ては取り戻せなかった。サブスクにあるのが取り戻せなかった音楽なのだろう。その中でも「SIREN」と「救済の技法」はBANGKOK録音3部作の2番目と3番目に当たる、それぞれ名盤だ。平沢はJASRACの仕組みを当初よく知らなかったという事を後悔しているが、糧にしている。
その後にも声優で平沢のファンでもある上坂すみれさんのラジオに出演した際、「もし楽曲を提供する事があったとしてもJASRACには委託しない」という意向を遠回しに伝えていた。多分上坂さんは困っていただろう。
音楽教室の使用料の問題が話題に上がっていたとき、一部のアーティストは「自分の作品は使ってもいい」と主張しているのを目にした。しかし、それでは解決しない。本当に著作権に関して自分の意向を貫くならばJASRACの枠組みから離れなければならないのだ。それも音楽業界の構造上、簡単な事ではない。しかし、平沢にはその覚悟があった。
可能性を残す思考回路
平沢は陰謀論と呼ばれる考えに対して、寛容というか、何なら受け入れている。その事で彼の内面について全く知らなかった人々が面食らっているのを目にすることがある。このような状況でよく囁かれるのは「音楽は好きだけど思想的にはちょっと…」という言葉だ。過去のnoteでも触れた事がある話題だが大事なので何回でも触れよう。
「アーティスト」の表現は一朝一夕で出来るものではない。それは内面に積み重ねられたものの表出だ。音楽理論によって導かれたりする類もあるが、音楽理論自体はその人の中で解釈される事はあっても蓄積されたものではない(蓄積したものが理論に則っている事は多々見られる)。蓄積したと思っていても、それは用意された体系だ。どちらかといえばその体系は他者が多くを担っているという印象だがどうだろう。この時代に印象論で申し訳ないですけど。
(※余談だが菊地成孔氏、大谷能生氏による「憂鬱と官能を教えた学校」という音楽理論に触れながら歴史を辿る本がある。その中で「標柱」と題された石塚潤一氏が寄せた文章の中で「音楽理論が持つ効用と副作用に自覚的でなければならない」や、音楽理論を学ぶ事に対して、「二流のマイルス・デイヴィスになるためではない」という言葉を残している。刺さる言葉だ。)
平沢は普通とは違う道筋で自分の経験と解釈を積み上げている。空腹だが金がないときに「食べられる雑草」の本を買うというエピソードはちょっと常軌を逸していると思う。そして彼自身過去を振り返るとき、その選択を誇りに思っている。
もちろん、アーティストが自分のイメージを生み出す為に事実を元に人物像を脚色する事はある。自らをも欺く人物像を仕立て上げる事もある。しかし、それを差し引いても平沢から放たれるエピソードというのは脚色という次元ではないように思える。まあ、本人は「詐欺師」を自称する事があるが。
「アーティスト」の話に戻るが、その人が積み上げてきたものはその人の中で体系を生み出す。それは音楽とそれ以外の要素(例えば思想等)を分断して捉えようとしていると気付くことが出来ない。思想等を始めとする彼を媒介に繋がっている全ては彼の音楽を生み出すギミックとなる。
その先にあるのが陰謀論に対する反応なのだ。彼は一般的な常識には囚われない。JASRACの件だってそうだろう。常識破りな行動をしてきた結果、今があるという事に自信と確信を持っている。
彼の座右の銘は「無一物中無尽蔵」だ。この考え方が可能性を仄めかされた出来事を受け入れる姿勢に繋がっている。彼の考え方や経験の末に行き着くところが一般的な先入観を捨てる事だった。常識と換言できるか。そして彼は彼の持つ全てによってそれを捨てた。そして枠組みから逃れる。
そうは言っても陰謀論にアレルギー反応を示す人は多いだろう。俺も陰謀論をストーリーとして興味深いと思っても全肯定は出来ないし、やはり常識を疑う事に極端さを感じてしまう部分もある。そもそも、一人ひとり違う人間である以上、考え方の全肯定という事は盲目的な崇拝でもしない限りあまり起こらない。
そんな一人ひとり違いがあるのが当然の世の中でアーティストの個人的な考え方に(例えそれが極端でも)過敏に拒絶し始めたらキリがないだろう。そこで、極端さが人々に齎すイメージ、そして生み出される作品を無二のものとしているという面を受け入れてみるといい。俺は危ない橋を渡る人を見ていたい。もしかしたら巧妙に渡っている振りをしているだけかもしれない。彼は詐欺師だ。
無尽蔵人間
一般的な常識を捨てたことは作品を作る際に生かされている。金が無い中での創意工夫や苦労話は大変そうではあるが、どこかコミカルにも感じる。困難だろうが、制限を受けている状態こそ新しい発想を生む機会になるかもしれないと平沢は教えてくれる。
ここで「困難だし俺には出来ないだろう」なんて事を言う人を平沢はいつも叱る。平沢は自分に特別な能力があるとは言わず「自分ができることはあなたにもできる」と本気で考えているし、口癖のように言う。彼のような「自分の事を知って欲しい」とか思わなさそうな人間が自身の話をツイッターで話すのはそれを伝える為なんじゃないかと思う。人に無関心な雰囲気の方だが実際はそうでもないのかな、と考えさせられる。
平沢が放った言葉に「音楽以前」というものがある。ニューウェーブについて語るときに「音楽で音楽以前を見せる」という風に使っていた。俺の解釈ではそれこそ「独自の体系を内面に持つ人間」の事なんだと思う。どこかで触れた事があるが村上隆の「作品は僕の一部であるが全てではない」という言葉に似たものを感じる。
平沢は続けてこう言っていた「音楽で音楽を見せる音楽は退屈である。見せる音楽すらなく、音楽で技量を見せる音楽は更に退屈である」と。100%同意はしないが彼の作品を知っている人からすれば、とてつもない説得力を感じるだろう。正しいとか間違っているとかではなく、その思考が作品に結びついているが故の説得力。だから完全に同意していなくとも刺さるのだ。
ファンと崇拝
平沢はファンに対して表面的に迎合する態度は取らない。ただ、作品やステージにおいては妥協のない失敗を恐れぬやり方で魅了する。全く彼の事を知らない人でも目を引きそうな視覚的な演出には多才さを感じる。
インタラクティブライブという観客の選択によってセットリストが変わるライブがある。リハーサルが大変だと言うことをよく呟いていた。発想にあったとしてもやろうとする人がいなさそうな事を実現するべく全力で挑んでいる彼の姿は凄さもあるがなんか面白い。ライブ中にトラブルが起きる事もあるが、それも彼の生き様だ。常に新しい事を導入しながらやろうとするが故の副産物なのだろう。
彼のツイートにぶら下がるファンはカルト的な雰囲気が漂うが、そういった捉え方は表面的過ぎるかもしれない。でも、皮肉な状況を生み出している事もある。平沢は全てを説明せず方向を仄めかし「自分で考えろ」という態度だが、人によっては盲目的な崇拝をしている人もいる。盲目的な崇拝が自発的な思考に繋がるだろうかというのがちょっと疑問だ。崇拝以外の表現が分からない人はどこにでもいるし、多かれ少なかれ誰しもそういった要素は持っている。そもそもカリスマ性のあるアーティストには崇拝するタイプのファン層が析出されるのはよくある事だ。ただ、熱心なファンがいるからこそ平沢の意図は現象として起こるという側面は軽視できない。
常に全盛期のメンタリティ
平沢が嫌う事の一つに「年齢のせいにする」というのがある。それは自分に対する先入観であり、克服されるべきものとしている。実際、平沢は我が身一つでそれを証明しようとしている。70手前でDAWで曲作ってます、という人はあまり見ないように思うのは気のせいだろうか。もう今の時代ならいてもおかしくはないのかもしれないが。しかし、広く普及する前から先に手を出している。早さで言えばCGもそうだし、水素エンジンのMIRAIもそうだ。早過ぎたが故の苦労話は彼の十八番だ。反射神経に自信アリ。
彼は常に時代の流れを先取りすべく動くが、それがわかりやすく出ているのはもちろん音楽作品だ。テクノパンク的な初期P-modelから始まり、電子化になだれ込んだかと思いきやピコピコした質感を拭い去ってソロ活動を始めたりと、それぞれの時代に形の異なる自分の音楽を持っている。最近の作品の「Beacon」とそこから約十年前の「現象の花の秘密」を比べても変化の大きさがうかがえる。まあ、「現象の花の秘密」は特徴的過ぎるアルバムではあるが。
俺が思うに優れたアーティストはその時代に適応し、常に新しい価値観を提示し続ける試みをやめようとはしない。飽くなき探求心というやつだ。別でも書いたか。
俺は好きなアーティストが若くして死んでも深い悲しみ暮れることはあまりない。理由は、大抵の場合そういう人は、自分のやるべきことをやり切っているように感じるからだ。全盛期を過ぎれば後は静かになっていくというのは、優れていようがいまいが、多くのアーティストがそうだろう。全盛期を過ぎても第一線にいたとしても創作において第一線かと言うとそうではなく、過去の財産によって居座り続けている。別に悪いことじゃない。そういう需要が無い方が不自然だろうし、どんな先進的な人でもそういった側面はある。
縁起でもないが、もし平沢進が死んだら俺は深く悲しむだろう。それは彼が常に新しいアクションをしているからだ。若者が死んだときに多くの人が「もし生きていれば」と来なかった未来に思いを馳せて感じる悲しさに似ているかもしれない。俺は平沢に対して、何歳になっても新しいものを提示し続けるだろうという期待からそういう風に思ってしまう。