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サブスクを解禁しないアーティスト

 サブスクを解禁しないアーティストは一定数いらっしゃる。もちろん解禁してくれた方が便利でありがたい。とはいえ不便だからとむやみにそのスタンスにケチをつける気はない。
 サブスク、それらはここ10年、いや5年くらいで広く普及した印象だ。最初はサブスクを解禁していなかった有名アーティストたちもここ2、3年で次々と解禁しだした(漠然とした記憶だけで語っています)。名前を挙げ始めるとキリがない、そう言いながら名前を挙げるのを面倒くさがっています。

未解禁だからフィジカルへ

 あれよあれよとサブスク未解禁派が少数派になってしまった昨今だが、サブスク解禁を渋るアーティストの存在は捉えようによっては悪い事ばかりではない。理由はCDやレコードといったフィジカルに手を出すきっかけになるかもしれないからだ。
 不便だけどその界隈にはその界隈の面白さがあるのだろうし、音楽に対する向き合い方のバリエーションだと思って楽しめばいい。まぁ、俺自身レコードを持ってないので、持っていたらもっと説得力ありそうなことを言えたんだろうけど。音質云々。
 それに全ての音楽をサブスクに委ねるのもどうだろう。過去の記事でも書いたが、サブスクに依存しすぎるとある音楽が配信停止になった途端その音楽を聴く方法が無くなってしまうかもしれない。
 それを踏まえるとYouTubeでグレーなアップロードがされている音楽(今はわりとシロになりつつあったような)や先ほど触れたCD、レコードなどのフィジカル類、これらをサブスクがあるからと一掃してしまう潔癖な考え方は危険かもしれない。理に適った考え方も状況が一変すれば通らなくなる

究極の妥協案

 サブスクを解禁しない音楽家たちは何故解禁しないのか。個人的な考えだが、やっぱりサブスクに対する心象が良くないんじゃないかと思う。「何じゃその理由」と思われるだろうが、サブスクの時代に至るまでの流れは違法聴取との戦いの歴史だったのではないだろうか。
 思えばコピーコントロールから始まっていたのだろう。そこからYouTubeなど無料で聴ける環境がどんどん作られCDの売上が落ち、何とかして金を回収する方法を生み出そうと苦悩する。その結論としてのサブスクは苦渋の妥協案に感じられる。
 冷静に考えれば「こんなお得なサービスいいのか?」と驚くばかりだ。シングル1枚に満たない金額で大抵の音楽を網羅出来るのだ。イカれてる。しかし、今や2、3曲の為に約1000円を支払う方がイカれているとされる時代だ(言い過ぎか…)。一音楽ファンとしてはありがた過ぎる状況ではある。
 とはいえ音楽家の中にはそれを良しとしたくない心情が芽生えるのも仕方がない事ではないだろうか。この流れを間近で眺めていた人ほどに。先程は「苦渋の妥協案」と表現したものの、もっと過激な言い方をすればサブスクは違法聴取に対する敗北宣言と言えるんじゃないかと思う。手に負えなかったのだ。

サブスク外の音楽との戯れ

 解禁せねば時代の流れ的には聴かれる機会は減るだろう。それでも「解禁すべきだ」と特定のアーティストに固執する必要はないように思ってしまう。欠落という状態を楽しめばいい
 そうして忘れ去られたのが重大な欠落だったとしても、いつか誰かが発見するかもしれない。それに我々も既に重要な音楽を見落としているかもしれないし。
 サブスク外の音楽の未来は混沌としているかもしれない。でも整理されていない混沌とした領域があってもいいのかなとも思う。好んで踏み入る好事家は一定数いるだろう。
 理屈で考えればサブスクという棚に綺麗に陳列されていた方がいいのだけど、理屈ばかりでは面白くない。網羅されにくい独特なシーンの存在やアウトサイダーも音楽という文化の面白さである。

聴く為の条件

 聴く為の条件で音楽そのものの質は変わらない。でもそういった事が少なからず聴く人の心情に何らかの影響を与えるのは変な事ではない。聴く為の条件に左右されず、機械的に音楽のみに集中する事だってできる。つまり、サブスクで手軽に聴ける音楽も入手困難で聴く事に手間が掛かる音楽も同等に接する事ができる。「聴く為の過程なんて関係ない」と。
 それでも「聴く為の条件」という音楽そのものではない背景が音楽に魔力を与えてしまう事はある。それも音楽の側面として楽しめばいい。無理に機械的に鑑賞しようとすればするほど本来の自分の感覚から離れてしまうだろうし、人間だから音楽が楽しめるというのに自ら機械的に鑑賞しようとしてしまうのは本末転倒ではないだろうか。


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