匿名性と、名前に名前っぽくない名詞をつける流れ
思いつきと勢いなので粗勘弁。
M-1グランプリ2023、優勝したのは令和ロマン。お笑いについて語る気はないが、気になったのはこの二人の名前だ。高比良くるま、松井ケムリ。「くるま」と「ケムリ」、どちらもあまり名前に使われる名詞ではない。いや、今となっては言い切れない。
芸人に限らず音楽家にもその類の名前が既にいる。思いついた人だけでも挙げてみると、長谷川白紙、尾崎世界観、小林私、鈴木もぐら、水川かたまり、パソコン音楽クラブ、食品まつり、家主。
ちょっと範囲が広すぎて並べると統一感無いような感じもするが、何となくネーミングセンスが今の時代を表しているような気がした方々を並べてみた。明和電機なんかも近しい、だいぶ早い気がするけど。
ここで思いついたのは、敢えて名前っぽくない名詞を名前にする事は匿名性に近い何かがあるんじゃないかという発想だ。「某」的な感覚だ。名前から主体性を感じない何かにしようとしている。特定の何かを想像しにくい名前というべきか。
白紙、世界観、私、これらの名前に特定の何かを連想する事はない。というか人の名前という感覚のない言葉だ。敢えてそういう言葉を選んでいる(書いているうちに加藤茶、とか山崎ハコとか昔からいる人の名前を思いついたが、動機が違うと思うので置いておこう)。
個人名ではないパソコン音楽クラブ、食品まつり、家主はどうだろう。家主はさっき触れたのと似ている。食品まつりはエッジの効いた音楽をやっているが故に敢えて名前をシンプルにしたのかなと感じた。パソコン音楽クラブの「某」感は凄い。パソコンで音楽でクラブ。まんまやないか。この捻らなさがかえって目立つ。ゴテゴテしたデザインのパッケージが並ぶ中で一つだけシンプルなものがあれば際立つ(みのミュージックさんが今年3月にリリースする本のジャケは真っ白だ!)。
明和電機もどこかしらにありそうな企業名で「物珍しいものではありませんよ」とカモフラージュしている雰囲気がある。個性を求められない会社員の姿に擬態しているのだ。彼らの感覚は先行ってたのか。探せば他にもあるのかも(調べてない)。
匿名性でいえば最近は顔を出さないで活動するというのが活発になっている。
ビート・クルセイダースやGReeeeN、マンウィズなど、もっと早い段階から顔を隠し活動している人もいる(スリップノットとかローディは置いておこう)。現在ではAdo、yamaなど(他思いつかなかった)色々いる(だろうと予想)。長谷川白紙もそうか。Vtuberなんてみんな匿名である。顔を出さずにスターの時代が幕開けしている。これが新時代。
匿名性の重視は現代的な感覚であり、その感覚がネーミングセンスや活動の形態に影響しているのではないだろうか。誰もがスマホを持ち、何かあれば晒す事が出来るという時代背景も無関係ではないだろう。疑心暗鬼。
匿名でありたいという欲求と承認欲求が共存する時代。恐らく若い世代は子供の頃から「ネットの恐ろしさ」みたいなものを徹底的に教育されている。特定される要素を持つ事を恐れる(テレビカメラがあれば映りに行く陽気さは現代でも生きているのだろうか)。
自分の情報をできる限り公にしない事は「普通の感覚だろう」と思うだろうが、その感覚こそが現状に繋がる。高い能力を持ちながら一歩前に踏み出せない人が踏み出す方法がそれなのかもしれない。